暮らす豆

ゆるい日記など

想像下の指

 

 

外に出て息を吸った。

薄いけれども硬い氷の内でこっそり呼吸をはじめたみたいな春!

せわしない人間はなんと息の吸い方まで忘れてしまう。

呑み込みすぎた空気は胃から出て、喉を通り、また空気に還ってゆくのだった。おわり。

 

🤏

 

知り合いと指を絡め合う夢を見た。

知り合いの指を噛む夢を見た。

ひとりで立つことのできない自分、カワイイ!!!!!と思う時間もあるが、ダサいと思う時間の方がそれより圧倒的に長い。

なんにもダメじゃないよ、そう言ってくれる誰か(あるいは何か)を待ちながら、想像下の指を眺め続けた。

0でも100でもなく、40〜60の間をふらふらと移動する指。

恋人繋ぎを拒んだ指は、それでも私の手を取った。その事実に救われた。以上おしなべて夢。

 

さいきょうの寝巻き

 

だめだ、と思った時は素直に涙を流すようにしている。

私がだめだ、と思うのはきまって周りに人がいないので(人がいると自分が“だめ”になっていることに気づけない)、特に支障はない。

側にあったペーパータオルで涙を拭いてポッケに突っ込み、何食わぬ顔で外に出る。

泣いたことも忘れてスカートをそのまま洗濯してしまい、黒い服にペーパータオルの欠片と涙が絡まってしまったのは、また別の話だ。

 

呼吸することについて延々と考えていたら、そのうちゲシュタルト崩壊して上手く息ができなくなり死んでしまうのだろうか。

きっとすごく苦しくなるだけで死ぬことはないだろう、やってみたこともないが世間一般的に人生ってそんなもの、と思う。

 

自分の中の矛盾と折り合いをつけて前向きに生きようと思える朝は、果たしてやってくるのだろうか。

繊細で鈍感、意思が弱くて強い、真面目で怠惰、その他諸々……

この矛盾、そしてそこから生じる罪悪感を誰にもうまく説明できないので、次に日常で感じることがあればメモでも取ってやろうと思う。

自分自身が嫌で仕方ない一方、私は誰より自分自身が可愛くて仕方ない。

自分自身の探究にだけは微塵も手を抜かないことから明らか、本当に、嫌になる。

あーあ。

ヒヨウタイコウカとかコウリツカとか真面目な顔して口にする私はちっとも私ではなくて、だから私は試験管の中で分離してしまった。

細いガラス瓶を力の限り振らなければ私はうまく混じらなくて、だからほら、家にいる間はずっとぐったりしている。

抜け出さなきゃいけないと思いつつ、抜け出さなきゃいけないという思考を維持し続けるのは難しい(分離した私は弱いので)。

あーあ。あーあ。

会社が潰れてしまえばいいのに。メンタルバブの他力本願寺本山はそんなことを日々願いながら出社する。

私のこれってきっとありふれた感情で、そんな感情により電車が動き蛇口からお湯が出て、つまり生活は回る。うつくしくて異常だ。

貰い物のスプーン

なんだか今日はすごく悲しくなってしまった。

 

 

 

自分が狂ってしまっているのか、脳内でシステムチェックをかけ続ける生活にも疲れてしまった。考えてみたらもうこれ五年くらいやっている?

 

何をどう診断しても、私は心身共に健康そのものだ。

 

私のしんどさにはいつも名前がつかないな、でも名前がついたからといって別に楽になれるわけではないし、名前がつくしんどさの方がきっと重篤にちがいない。だからこそ、名前が必要になるわけで。

 

 

 

おもしろい動画を見てわははと笑ったあとの、沈黙。

 

孤独なことがいやなんじゃなくて、孤独をすんなり受け入れられないことがいやだ。

 

街を歩くときの私は、誰にも理解されないと思い込みながら、同時に自分を理解してくれる人との出会いを心待ちにしてもいる。

 

私は自分のそういう浅はかさ、自我のなさが、ほんとうにいやだ。

 

しまいには成人してそれなりに時間が経つというのに、こうしてローティーンみたいな悩みをネットに放流している。

 

本当に浅はかだと思うけど、自分と似たようなかなしさを持っている人がこの世のどこかにいるように思えてしまうから、今日もこうやってたわごとばかり書きつけている。

 

他人と、本当の意味で理解し合うことなんて絶対にできない。

 

折に触れてそう口にしてしまうのは、自分自身が一番それを認めたくないからだろう。

 

 

 

雨の降っていない日、風を感じながら自転車に乗れるくらいの幸せでいい。

 

難しいことはいらない。

 

そんなことを思いながら床でとろけていたら、一日が終わった。

暮らせ!

ホームの床と走る電車の間にできる光と影の帯をただ眺めていたら、今まで自分を守るため必死こいて被っていた“真面目”の皮がぶち破れるのを感じた。

後から思った。あのとき、ぼろぼろになった“真面目”の皮は電車に飛び込んだのだ。

飛び込んだのが私でなくてよかった。

 

 

 

経緯を説明しよう。

出社しなければならないという事実、辞めたくても辞められなさそうな現実、仕事なんてせず文章を書いていたいという願い、その他諸々の憂鬱渦巻く重い頭をどうにか起こして家を出、ホームの椅子に座って電車を待っていた。たぶんやばい表情をしていた。

 


誰かに相談したい。私はそう思った。けれども相談する相手なんていない、正確には今の苦しみを言葉で説明して分かってもらえるだけの関係性を築けた相手なんて、私にはいない。

こんな時、両親は何というだろう。「○○が自分で決めたなら、なんでも応援する」あたりが妥当だろうか。

 

 

 

よく分からないけど、ここまで考えた時急に頭がスパークした。

 


そんなに、私を、信用するな!

 


今までこの私を真面目だと評した、頼れると評した、その言葉全部が私の身体から5ミリくらいズレたところでぷかぷか浮かんでいる。

 


私は、全然真面目じゃない。「あなたなら大丈夫」という信用を勝ち得るような人間じゃない!

 


そう思ったところで、冒頭に戻る。

 

 

 

 


文章にすると後ろ向きとしか読めなさそうだけど、私の心はこのとき晴れやかだった。

 


だって、私は真面目じゃなかったのだ。剥がれた“真面目”の皮を客観的に見られるということは、私と“真面目”は別物なのだ。ただ、つい数刻前まで身体にぴったり張り付いていたというだけで。

 


つまり私は自分のゆく道を、周囲の人間や世の規範でなく、自分の力によって定義できるのだ。

こんなに嬉しいことがあるだろうか!

 


今日は一日のびのびと過ごした。

 


上司と話す時声のトーンを明るくする必要もない。

どうせマスクで見えないんだし、ニコニコしている必要だってない。

受けたくない試験を無理に受ける必要だって、どこにもない。

 


何事もほどほどにやって、ほどほどの時間に帰ればいいのだ。どうせ辞めたい仕事だし。

 


たぶん、やばい表情はしていたと思う。でもそれは、もともと私がやばい表情をしている人間であるというだけのこと。

そして私、やばい表情をしている自分のことは、そんなに嫌いじゃない。

最果てって何

 

久しぶりだ。

 


昔読んだ本に「宇宙が誕生する確率は、机に肘をついたとき手がすり抜ける確率より低い」と書いてあった。うろ覚えだけど。

 


その話から私が得たのは宇宙の神秘に対する感慨ではなく「机を手がすり抜ける可能性はゼロじゃないんだ……」というしみじみとした驚き。

今ペンを取ろうとした指が、アスファルトに向かって踏み出した足が、虚空を捉えるかもしれない。

そう思った瞬間宇宙も確率も何もかもどうでもよくなってしまい。

私の中に残されたのは、ただ机に肘をつくときの胸の高鳴りだけだった。

 

 

 

中学だか高校だかのとき、ふいに「生きることは黒歴史を作り続けることだ」と思ったことがある。

用があってこのブログの内容を読み返しながら、もう一度その気づきを反芻した。

今だから分かる、それは真理だ。

 


『モモ』という小説には、主人公の大親友として年老いた掃除夫ベッポというキャラクターが登場する。

彼は汚れた道路を掃除するとき、自分の後ろに綺麗な道が広がっていくのを感じながら、言葉にしきれない人生の真理について、かけがえのない風景について、思いをめぐらす。

 


私が通った後の道は全然綺麗でもなんでもない、むしろ薄汚かったりみすぼらしかったり、ときどきは目を覆いたくなるようなものだったりする。

でも私は毎秒その道を歩き、毎秒黒歴史を生産しながら、自分にとって本当に意味のあるもの、を見つけたい。

きっと私が見つけるのは考えや意見などといったものではなく、概念と呼ぶのがふさわしい曖昧なものだけど、それでもいい。いや、それがいい。

 

 

 

白くて清潔な殻、の中に、緑色でぶよぶよした得体の知れない何かが詰まっている。

ぶよぶよは知らぬ間に膨張して、その手を伸ばし殻を割る。それでもなお大きく大きく広がり続けたので、もはや殻は意味をなしていない。

殻は清潔で、艶がなく、常に正しい。

緑色のぶよぶよは、思わず目を背けたくなるほど醜い。でも太陽の光が当たると、思いがけず宝石のような輝きを見せる。

私は、そう信じていたい。

何らかのレター

ことばを使って何かを作りたい、何者かになりたいという気持ちだけが拡散していて一行に方向性が定まらないな

書き続けていれば見えてくると思ってたけどそんなこともなく。私は何がしたい?

 

 

以上、twitterの下書きより。

 

 

私は理路整然と話しているように思われがちだけど、頭の中は常にとっ散らかっている。

そしてその思考のうち大事なものほど世の中の法則ではなく、いわゆる「自分ルール」に則って成立している。そのことに気が付いたのはごくごく最近だ。

 

先述の通り「ことばを使って何かを作る」、これが私のやりたいことである。

作家になりたいのかと言われると、なんとなくそうではないような気がする。だったら歌人かと問われると、それもまた違う。

なんというか、そういったもろもろを飛び越して、私はただ純粋に書く人でありたいし、書いたものを何らかの形にしてみたいんだと思う……伝わるだろうか。

 

 

先日イベントに参加したのはとてもいい経験だった。世の中にはまだ知らない素晴らしい作品がたくさんあって、そして、自分の作品を選んで買ってくれる人がいる。創作とそこから生まれる交流の、もっとも原点に近いところを体験できたように思う。

また何か作って、イベントに参加してみたいな。その気持ちに嘘は全くない。

全くないけれど、じゃあ自分がどういう方向に進んでいくのか?イベントへの参加こそが自分の本当にやりたかったことなのか?と聞かれるとうまく答えられない。

うーん、書いていてうんざりするけれど、私は本当に面倒くさい性格をしている。友達の誰かにこの文章を見せたら、間違いなくうだうだ言っていないで行動しろと言われることだろう。

 

ボトルメッセージを海に流すときってこんな気持ちなのかもしれないな。

題もつけない

なんだか、生きたいように生きるには人生は短すぎるな、とずっと思っているような気がする。

 

世界はばか広くて、私の見たことのない空も読んだことのない本も聴いたことのない音楽も星の数ほどあって、そしてその中には、私が一生をかけて大事にしたいと思えるものがきっとたくさんあるはずなのだ。

でも、現実にはそれらに出会えないまま歳をとる。身体は老いていくし、その他に社会的な制約も多くなっていくだろう。例えば仕事で一定の地位を得て、気ままに暮らすわけにはいかなくなる、とか。

 

だから私は自分を責めるのをやめた。それが自分にとって一番もったいない、時間を消費する行動だと判断したから。

暗くて後ろ向きなところが私の源流で、それを断ち切ったらもう何も出て来なくなってしまうんじゃないだろうかと考えて、そしてその貧困な考えにも嫌気がさしていたけど、自責の念を捨てたらまるで羽が生えたように自由になった。

自由になった、けど、依然として人生は短い。

私が成し遂げたいことは、死ぬまでに半分も達成できないような気がする。

ぜんぜん時間が足りないぞ。どうしよう。