暮らす豆

ゆるい日記など

ふわとろお布団

年が明けて数日、皆さまいかがお過ごしでしょうか。私は立派な寝正月を過ごしておりました。年末はごろごろ、元旦からごろごろ、2日になってもごろごろ。

そんな生活をしていたせいなのか(せいなのか?)初夢は元彼と幸せに同棲する夢だった。

幸先悪っ!と思って調べてみたら、元恋人と同棲する夢は相手に対する未練を断ち切れたことを示す、らしい。幸先悪くなかった。ほっとしました。

そんな調子です。

 

しばらくブログの更新ができていませんでした。

年末は仕事(やめたい)が忙しかったというのと、それと他に始めたこともあり、ちょこっとブログの更新が疎かに……

最近は短歌を書きためています。これが、前述の「他に始めたこと」。

言うまでもなく木下龍也さんの「天才による凡人のための短歌教室」に影響されてのことですが、、

自分の頭の中身を取り出して文章にする、という作業はすごく好きなんだけど、長い文章を書く、ということがなかなか私には難しく。

絶えず新しい景色が浮かんでくるのでひとつの作品にまとめられない!なんて言ってみたら聞こえはいいですが、単に飽きっぽいのと思考が短絡的なのとが原因ですね。

 

そんなときに「天才による〜」に出会い、これは運命かと。

やってみるといかに短歌が難しいか分かるけど、ちょっとこれは気に入ってるかも、、なものも既にあり。

どうやって公開していくかは全然決めていないので、毎日作って下書き状態で手元に置いています。

あ、これ、世間的には何もやってないように見えるな、、ということに気がついたのが先ほど。

 

私には夢があります。というか、夢が最近増えました。

1個は前にも書いたけど、文学フリマに出展すること。

まだ出展する作品も何もない状態なので、文字通り雲を掴むような話、ただの夢なのですが…

 

そんでもってもう1つの夢は、1つ目よりもさらに突拍子もなく、そして頑張ったところで叶えられるのか分からん、というタイプの夢。

ちょっとここに書くのはいろんな意味ではばかられるのでTwitterでDMくれたらこころよくお教えします…なんかの詐欺みたい。

 

でも、どちらの夢にも共通点がある。
それは、書き続けること・同じような夢を持った人と仲良くなること・の2つが近道になる、ということ。

なので、2021年のテーマはとにかくストイックに書くこと、そしてそれを発信してこれまでより多くの人に読んでもらうことにしようと思います。今決めました。

 

2020年のうちに種は蒔いたはず。

これまで言い訳にしてきたアレコレ(仕事とか仕事とか仕事とか)と上手く付き合ったり、時に突き放したりしながら書き続けたいなと思います。

 

まじめな雰囲気になってしまいました。
いろいろ宣言してしまったけど、昨年見てもらった占い師に「あなたは目標を持ったらいけない」と言われたので、あんまり気張りすぎずグンニャリと前を目指そうみたいな気持ちです…がんばろう。

がんばろうね。

持ち物

12/2

fuzkueに寄ってカポーティの「遠い声 遠い部屋」を読了。久しぶりに深く深く沈み込んでいくような読書ができて、大満足だった。一緒にランディングの屋敷も地中深く沈んでいった。私はfuzkueという場所がとても好きだ。

 

読み終えたあと、「詩人になるか、でなければ、何にもなりたくない」という言葉が頭に浮かんだ。当然カポーティの言葉ではないんだけど。
現代を選んで生まれてこれたのは私にとって幸せなこと、のはず、でも今の私は自分の進みたい道にまっすぐ向かうことができないな。

 

「遠い声 遠い部屋」を読み終えたあとには、くすんだ金色をした丸いドアノブと、きらきら光る夜露が残った。どうやったらあんな風に、美しいものを美しいまま描き出せるんだろう。

 

急行に乗れば早く帰れるのに、お尻が各駅停車の座席に吸いついて離れない。開けっ放しの自動ドアから冷たい風がずっと吹き込むので、足首がすっかり冷えてしまう。帰ったら急いで洗濯機を回さなきゃ。明日着る服もないんだ。

 

変拍子の音楽には輪郭がないので、聴いているうち自分の外殻も静かにほどけていくような気がする。リラックスするあまり自分の中身がこぼれ出してしまいそうなので、今日はカーテンをきっちり引いて、真っ暗な中で眠りたい。誰にも見られないように。

 

https://music.apple.com/jp/album/%E7%AC%AC%E5%85%AB%E7%97%85%E6%A3%9F/1298389535?i=1298391674

だめモード

11/29

 

人生のこと何も考えたくないなと思いながら人生は続く。ちっとも速度をゆるめてくれない。

 

昔からの知り合いを大事にしたいのに、ずっと自分の殻にこもっていたい期間が来てしまった。誰も自分のこと知らないところに行きてー、などと思う。思うだけ。

 

アンビバレントな国で生きている。別に人との付き合い方だけじゃない。働きたいのに働きたくないとか、強くなりたいけど強くなりたくないとか、そんなのばっかり!

 

私はいま全然大丈夫そうに振る舞えているし、側から見てそんなにやばそうな兆候はないはず。でも、いつも自分のことを静かに見ているもうひとりの自分が、これはやばい、やばいぞと騒いでいる。ここ最近ずっと。

 

ちゃんと診断されたことはないけど、たぶん私は嘔吐恐怖症だ。文字におこすのもちょっと怖い。

私自身はもう13年、つまり人生の半分以上(書いてて自分でも驚いた)そういう事態に陥ることがなかった。というかそれを避けるために必死で床をのたうち回ったりしたこともある。胃腸炎になったときは本当につらくて、お腹に菌?ウイルス?がいなくなったあとも口の中に咀嚼された食べ物があるだけで気持ち悪くなって、それで一瞬だけがりがりに痩せた。

話がそれた。

そう、私は嘔吐恐怖症なんだけど、最近駅とか街中で見る床の汚れやタイルの剥がれた部分、無造作に落ちているゴミなどが、それに見えてしまうことが本当に多くなった。出かけた日は、少なくとも1日に3回は見間違いをしてしまい、そのたびに焦って振り返りながら確認している。もちろん予感が正しいこともあるけど、大抵はなんでもない。

私が本当に苦手なのは自分がその状況に陥ることとその状況に居合わせることで、別にそれが落ちているのを目撃しただけではそこまで動揺しない。普段であれば慣れなければ慣れなければ、と暗示をかけながら、むしろじっと見つめるくらいだ。

それなのに、やっぱりだめだ。はじめは深く考えていなかったけど、やっぱりいろんなものがそれに見えてしまう。別に最近それに関して怖い思いをした覚えはないので、見間違いの原因は全く別のところにあるんじゃないかという気がしている。例えば将来への不安とか。

 

こんなに不安なのはきっと寒いせいだと思ってこの冬はじめての暖房をつけた。部屋は暖かくなったけど、不安は増すばかり。どうして?

 

ねえ聞いて!が口癖の友だちをふと思い出した。口癖だけ切り取ると話したがりな感じがするし実際その子はすごくお喋りだけど、本当に大事に思っていることや悩んでいることは、日が暮れてから無意味に散歩しているときや、家に泊まりに行ってパジャマに着替え部屋の電気を消した後にしか教えてくれなかった。

 

今私はひとりで、パジャマを着てうずくまっている。電気を消すことはできない。電気を消したら寝る時間で、寝たら明日が来て、明日が来れば未来が来る。今どんな選択をしたとしてもそれは未来の生き方に直結するような気がする。

あーあ、夜をゴムみたいにびよーんと伸ばせたらな!

実際は納豆の糸みたい、伸ばすことはできるけど細くて頼りなくて、風が吹くだけでぷつんと切れる。そしてきちんと朝が来る。

甘い蜜吸いたい

11/16-18

 


何かになりきる習慣、第2弾。

今日は信号待ちしている間、道路の端っこに落ちている葉っぱのかけらになりきった。


ビルによって切り取られた青い空がただ広がっている視界。車が近くを通り過ぎるたび、はたはたと揺れる身体。揺れるだけ。本当に揺れるだけ!


帰り道同じ道を通ったけど、当然そこに葉っぱのかけらはなかった。

 


スーツの裾からのぞく同僚の足首、血管の川がくるぶしで綺麗な二股に分かれていて、ちょっとドキッとする。結構疲れている。

 

 

駅の連絡通路でちょっとくらっときて、まるで白っぽい風景がずっと続くかのように錯覚した。

最寄駅のひとつ手前で降りて歩いてやろうかと思ったけど、かかとが靴擦れぎみなので断念。私はどうしてこんなにすぐ靴擦れしてしまうんだろうか。絶対に靴擦れしない靴がほしい、たとえばひんやりしたジェルで出来てるとか。雲みたいに捉えどころがなくふわふわしてるとか。

 


数日前から急に仕事を頑張れなくなってしまった。頑張れないというか、気持ちが緩んでいるわけではないのに、なぜか日が沈むと何も頭に浮かばず、手がまったく動かない!日が短くなり始めているというのに。

私は自分について一番詳しい人、自分を一番甘やかせる人になりたい。だって私の人生、周りに優しくされてばかりで、人から優しくされることのありがたさも息苦しさも、よく分かるから。

だから、誰にも負けないくらい自分を甘やかしてやる。自分が一番望むものを迷わずに与えてやる。それが罪悪感を感じずに生きるための唯一の道なので!

大好きな場所でたっぷり時間を過ごした。自分を甘やかすことは堕落とイコールではないはず。ちゃんと前に進む!

丸く掃かれた四角い部屋

11/13

 


ふと思いついて、今日からある試みを始めることにした。

1日数分だけ、目の前に見えるモノの気持ちに全力でなりきってみる。

 


今日はトイレの脇に置かれている、掃除用ブラシになりきってみた。

選んだ理由は、絶望のあまり職場のトイレの床に座り込んで(汚いね)膝を抱えることが多々あって、隅にたたずむその姿になんとなく仲間意識を感じていたから。

便座に座り、まずはひたすら掃除用ブラシを見つめる。

 


見えてくる。

埃が踊る床が、人の足が、そして誰もいなくなったあとの暗闇が。

そして、香ってくる。ほとんどの時間は芳香剤に覆い隠されているけど、ふとした瞬間たちのぼる「あまりよろしくない」におい。

身体の芯がじっとりと湿っているのを感じながら、私は、ただそこに立っている。

 


しばらくしてトイレに座る人間と掃除用ブラシの構図が意外と似ているということに気がつき、ちょっと愉快な気持ちになった。縦に長いし。まあ、なんだか湿っているし。

 


楽しかったので、明日からも続けてみようと思う。明日は何になろうかな。

生きづらい生きもの

11/8


駅のホームから改札を目指す。お決まりの案内音声は「ぴぃん、ぽぉん」といった具合、少し嫌味を感じさせる程度には長い。
ひとり歩きながら、数時間前の両親との会話を思い出す。
そういえば、今の仕事は早くやめた方がいいと言ってくれはしたけど、次にどういう仕事に就くつもりなのかは全く聞かれなかった。
その意味を考える。


自分では覚えていないが、話を聞く限り私はかなり癇の強い子どもだったらしい。未だに頑固で、自分で引いた線を他人が勝手に踏み越えてこようとすると、突然怒りだしてしまうようなところがある。
私が何をやるのか、どういう道を選ぶのか、そういったことに関して親からとやかく言われたことはほとんどない。放任主義ではない、たぶん。どちらかというと、内心気がかりでたまらないのに、私には何も言ってこないという方が近い。
そうやって私はぬくぬくと育ってきた。私の辿ってきたレールは親が敷いたものではなく、自分自身が敷いたもの。それを踏み越えることが怖い。


数日前初めて転職エージェントに会ってきた。想像していたよりずっと朗々と話すことができて、自分に驚いた。
まるで嵐のよう、仕事以外のことはほとんどしなかった10月を経て、論理的に効率的に考え続ける力が知らず知らずのうちに身についていたみたい。筋の通った話を次々繰り広げて、私は人に興味がある、人と継続的な関係を築いていける仕事がしたい、というようなことを伝えた。それは全然嘘ではない。
嘘ではないのだが、だからといっていついかなる時もそれが100%真実である、というわけでもない。私はたぶん、自己効力感を得るために人と関わろうとしている。その事実をはっきり直視できているときと、そうでないときがある。
周りから何も強いられていない局面、大抵私は自己というやつを追求したい、という願いをもって行動している。自己効力感は確かに一時的に私を癒しはするだろうけど、それだけではいつまでも渇いたままだろう。
そもそも自己効力感を得るために人と関わるという動機の不純さ自体が結構むりだ。自分自身のために人に優しくする人、そしてそれに気づかず自分のことを優しいと思い続ける人、そういう人になりたくない。


両親と仕事について話している最中、「自分は恵まれている」と思えることは大事なことだ、と父は言った。
その一言に私は、心底びっくりしてしまった。まさかこの世に「自分は恵まれている」という感情を一切持たずに生きている人がいるなんて!
よく考えれば当たり前の事実だけど、恵まれた境遇で生活していることに対する罪悪感に日頃苛まれすぎて、あまり目が見えなくなっていたのかもしれない。

私はいつだって運がよく、恵まれていて、私の身の回りで起こった悪いことのほとんどすべてが私自身の手によって引き起こされたものだった…こう思うことも、傲慢だろうか。
初めて出会ってからもう10年弱くらいは経つのに、私はまだ西加奈子さんの「自分のしたいことを叶えてあげられるのは自分だけ」という言葉を信じ続けている。
世界は己の選択によってできていて、どの道を選び取るかによって世界はいくらでも色を変えるんだ!そう思い続けることは自由であると同時にものすごく不自由でもあって、それがなぜかというと、自分の運命はすべて自分自身の選択に起因するものだと認めることになるから。
私は基本的に腰の重い人間で(本末転倒だ)、かと思えば周りも驚くほどのスピードで重要な決断を成し遂げてしまったりもする。

ちょっと話が逸れてしまった。

そう、私は恵まれている。自分を不幸だと思ったことがないわけではないけど、ほとんどの時間は漠然と恵まれた環境にいる、そうでありながら弱っちくふがいない人間に育ってしまった自分、について考えている。
父と話しても母と話しても、最近はティッシュが手放せない。涙を我慢し続けていると先に鼻水が垂れてくるものなのだ、というのはここ数年で知ったことだ。
私は恩を受けすぎてしまった。たぶん両親は私より早くこの世を去るだろう。それまでに恩を返せる自信が全くない。そもそも何をすれば恩を返したことになるのかさっぱり分からない。受けた恩が背中に積み重なりすぎて、普通翼に姿を変えるであろう私のそれは、鉛のように重い。
もう罪悪感を覚え続けるだけの人生、いやだ!


物が乱雑に散らばった自室に帰り着いて、そこに染み付いた孤独のにおいを噛みしめた。
私はひとりだし、ここで普通に暮らしている限りは人に迷惑がかからない。
広い露天風呂でゆったり足を伸ばしているような気持ちになって、私はいつまでも部屋を片付けることができないのだった。

橙色

11/5

 


たった3分待てば電車がホームに滑り込んできて、私はどこへだって行ける。膝に手をやると、どこまでもすべらかなストッキングの感触が恨めしい。

 


早い方に乗って悪いことはないのに、なぜか急行を選ばず各駅停車に乗ってしまうことがある。不思議とそういう日の方が息がしやすい。

 


どうでもいいことをいつまでも覚えていることってよくある。

Twitterを始めたばかりの高校生時代「電車の中にいる人、みんな携帯見てるか寝てる。誰も現実見てない」というツイートを見かけた。上手いと言われればそうで、実際そこそこ拡散されたツイートだったけど、私は心底腹が立った。

あなたが勝手に規定する他人の現実って、一体なんだ?液晶画面の向こうに現実が広がっている場合だってある。あるいは、閉じた瞼の奥にも。電車に乗り合わせただけの人間、それも上手いこと言ってしたり顔でちやほやされたいだけの人間に、何が分かる?

 


昔はもっと、よく怒っていた気がする。大学生の時より高校生の時の方が、高校生の時より中学生の時の方が。その時の延長で、未だに自分は心の狭い人間だと思ってしまうけど、実際は気付かぬうちに穏やかな人間になっていたのかも。穏やかになったというより、怒る分だけのエネルギーを失ってしまったというだけの話だろうか。