暮らす豆

ゆるい日記など

湖のそばの家

 

人ぎらいなわけではないのに、どうして一人でいる方がずっとずっと落ち着くのか。

ここしばらくずっと考えていて一つの結論にたどり着いた。

 

たぶん私が本当に嫌いなのは、二人称の状態で誰かに所有されることなのだと思う。

所有というと言葉の範囲が狭いけれど、自分がどういう人で、何をしようとしているのか、把握(仮)された状態になるのがいやだ。

人が人を理解することなんてできるはずがなく、把握(確定)は永遠にやってこないのに、そのままそれを受け止めて暮らすのはしんどい。しんどいというか、ずっと背中の真ん中あたりが痒いままというか、そういうどうにもならなさがある。

面倒くさい人間だ!

誰もいない部屋にへんな姿勢で座っている、今みたいな時間が、いっとう良いのだ。

 

恋愛をしたら、二人称がなくなる。正確には、二人称を排除するための激烈なエネルギーに消されてしまう。

どうしてそうなのかわからないけど、昔からそうだった。

一人でいたいと思っていたくせに、いざ自分のねばついた殻を破って中に誰かが入ってくると、過剰なまでに同一化しようとしてしまう。二人称を重ね合わせて歪な一人称を作ることに心を砕いてしまう。

西加奈子の「白いしるし」を読んでいつまでも恐怖しているのは、自分のそういうおそろしさをこの年になってようやく理解し始めたからだと思う。

 

この間26歳になった。小学校時代のことを思い出すとなぜだか泣けてきてしまう。クレヨンで描いたみたいにほろほろ輪郭のくだけたそれは、私にとって今や心温まる風景画でしかなくなってしまった、その事実が悲しい。

「このつらさを忘れてしまいたくない」と中学生の私は日記に書いた。嫌な苦味は消えないけど、それ以外はほとんど上書きされて消えてしまった。