暮らす豆

ゆるい日記など

遊戯

 

 指先までぴしりと整った二本の手がくるくると回り、うねり、握り込まれた包丁は生きているかのように踊る。彼はつまりそういう類の曲芸師で、そうであるなら普通は飾りのついた大ぶりなナイフを使うところ、どこにでもある簡素な包丁を使って見事な技を見せつけているのだった。趣味が良いのか悪いのか少し考えて、最終的には、やっぱりコイツ変なやつやわ、と思った。


 包丁じゃなくて他のものも扱えるか、そう聞いたら、彼は無言で懐からハサミを取り出した。こちらは凝った細工が施され、ぴかぴかの金色をしている。統一しろや、今度はそう思う。

 彼は左手にハサミを持ち、大きく開いて包丁を握り込んだままの右手首に向けた。そのまま、人差し指と親指をきゅっと握り込む。


 すぱっ。


 彼のからだを真っ二つに切ったらどうなるんだろう。かつて暇で暇で仕方ない日曜日の朝方、毛布に包まってそんなことを考えた、かもしれない。


 実際のところ、彼の手首から血は流れなかった。断面は奇妙なチャコールグレー色で、少しでこぼこしている。
 じろじろと手元を見ていたら、チャコールグレーを突き破るようにして、白く細い指が生えてきた。……は?
「ね、びっくりした? さすがの君でも」
 返事なんてしてやらなかった。やっぱり変なやつ、いや、つまんないやつ。

先輩の話

 

 先輩は、いついかなる時でも手袋をしていた。

 頭の真上で太陽がぎらぎら光る昼下がりでも、戯れにピアノを触る時でも、一緒にディズニーランドで遊んだ帰り道でも、先輩が手袋を外すことはなかった。学年が違ったからプールの授業の時どうしていたのかは知らない、そういえば。

 


 レイナやマコトはそんな先輩のことを「変だ」とか言って馬鹿にしていたけど、私はそんなに気にならなかった。

 たぶん、慣れていたからだろう。私のお母さんは手荒れがひどく、冬の間はいつも手袋をつけて生活していたから、あまり抵抗を感じなかったんだと思う。

 いや、今思えば、お母さんだって夏場は「汗でかぶれる」と、手袋をしまい込んでいた。

 


 今でも分からない。

 あの時、どうして先輩に聞いてしまったんだろう。

 いや、むしろ慣れていたからふとした瞬間何気なく口に出てしまったのかもしれない。

 


「先輩って、なんでいつも手袋してるんですか?」

 


 その日は朝からたくさん「今年初の猛暑日」という言葉を聞いていた。先輩は校庭脇、申し訳程度のぬるい水しか出ない水道に口をつけているところだった。

「え、知りたい?」

「まあ、知りたいです」

 私は、あたりがやけにまぶしいと思った。それは特別なことじゃなく、ただ校庭の砂が太陽の光を反射して白っぽく光ってるというだけのことだった。

「見せたげる」

 先輩は意味ありげにそう言って、左手で右の手袋を掴み一気に抜き取った。

「なんだー、普通」

 指が少しふやけているように見えるものの、それは実際普通の手だった。陽に晒されることがないはずなのに、ちゃんと先輩の首筋と同じ小麦色をしていた。

「でしょ」

 先輩は笑ったりせず、右手袋を元通りはめようとした。汗で滑るのかなんなのか、その様子があまりにも不自由そうだったので、私は声をかけた。

「片手じゃ手袋しにくいですよね? 手伝います」

「ありがと、じゃ」

 私は先輩から右手袋を受け取り、反対の手でそのまま左手袋を抜き取った。

「あっ」

「あっ」

 左手袋が、私の手から離れて砂の地面に落ちる。

 初めて見る先輩の左手は、一見普通に見えたけれど、よく見ると何かが変だ。

 小指。小指から、紐のようなものがひょろりと伸びている。

「やめて、西村」

 先輩の声は全然いつも通り、ちっとも動揺なんてしていなくて、何故だかそれが腹立たしい。

 何かが胸の内で弾けるのと同時に、私は紐を思い切り掴んだ。

 


「」

 


 紐が大きく伸びる。そのまま、しゅるしゅるしゅる、音を立てて先輩の身体が柔らかく崩れる。あああ、そこでようやく後悔したけど、もう止められない。

 


 どこか耳に心地良いその音が止むころ、先輩はすっかり小麦色をした毛糸のかたまりに変わってしまっていた。

 砂の上に大きくとぐろを巻いたその姿は、やっぱりいつも通りに思えた。

また会えるよ

 

 

音楽とか川とか季節とか電車の外を流れる風景とか、つまりは、流れていくものが好きだ。

ひとところにとどまらず形を持たず、境界があいまいなようできちんと区切られていて、それでも掬い上げようとするときちんとこぼれ落ちてくれる、そんなものが好きだ。

これは、前から思っていること。

 


最近思うのは、書くこともまたひとつの流れだ、ということ。

こういうことを書こう、こんなことを伝えよう、そんな事前の決めごとは大概どこかに押し出されていって、書き終わる頃には小さくなっている。川に削られた石みたいだね。

 


私の文章がどこに着地するのか私は知らなくて、それを眺めているときは、いつも楽しい。

 

🌷


外に出たら夜なのにあったかくて、ま〜た浮かれてイマジナリー春を生み出してしまったか! と思った。本当に気温が高かったのを知って、少し残念だった。なんで?

情熱

 

通っていた高校は、私の家からだいぶ遠かった。バスと電車を使い、駅から高校まで山を越え谷を越えて歩き、全部で2時間弱。友達や彼氏と話しながら歩く道のりを除いて、ひとりの時間、私はずっと音楽を聴いていた。

 


もともと私は、特定のアーティストの曲を聴く・応援するという行為が苦手だった。好きだと思うなら他人に「ファンだ」と表明するなら、そのアーティストにまつわる全てを知っていないと嫌だったから。仲の良かった友達が重度の嵐オタクだった影響かもしれない。

いくら知っても知りすぎるということのないクラシック音楽やディズニーのパークミュージックを聴きながら、私は高校生活の前半を過ごした。

 


そして後半、転機が訪れる。そんな私がついに、好きなバンドを見つけたのだ!

それからはTSUTAYAに通い、手に入るすべてのCDをiTunesに取り込み、長すぎる通学時間の間、ずっとずっと聴いていた。

本当にずっと聴いていた。広告がなかった時代のYouTube、MVも擦り切れるほど見た。擦り切れるなんてことはありえないけど。

人生で初めて“ライブに参戦”したのも、そのバンドだった。

ひとり訳もわからず最前の手すりを握りしめ(整番がべらぼうに良かった)、後ろから人に思いっきり押され、踊り狂う人を後目に私はただ、熱狂した!!こんな楽しいことがあってたまるか、と。

 


今はたまたま何もしていないけど、もともとは音楽と縁の深い人生だ。

何かにハマる、という体験はそれ以前にも何度かしていたけど、あれほど世界がガラッと変わったのはたぶん初めて。

 


あれから長い年月が経ち、今の私は彼らの新譜を血眼で追ったりはしない。ときどき、昔を懐かしむように聴いてみるだけ。

それでもあの当時の熱狂はきちんと胸を焦がすし、泣きそうなくらいの楽しさはいつでもよみがえってくる。

当時の私は認めなかったかもしれないけど、私は今でもちゃんと彼らのファンなんだ、と思う。

 


冗談みたいな話なんだけど、今日電車を待ちながら音楽を聴いていたら、もう2度と会うことはないであろう人が立っていた。

 


実際のところ、その人本人ではないだろう。よく似た他人というだけだ。

そう思ったとき、たまたまこんな一節が流れた。

 

割とまだ単純明快な23年間の

僕がやっと噛み砕いてきた人生経験を

裏切るくらいの音量で

12時前に叩き起こしてよ

 

難しそうな顔さえ見えない26年間に

詰め込んだ些細な不安の音聞かせて欲しい

軽く流せるくらいの音量で

 

天才か? と思った。語彙力がないな。

 


四半世紀も生きてしまった私は、それなりに多くの他人、その人生の流れにも立っている。流れ同士はぶつかったりまた離れたり、早くなったり淀んだり、それでも決して戻らない。

ずっとそばにあるのは音楽で、思い出したときふいに流してみるそれは、止まった季節の匂いを降らせる! いつまでも変わらず。

 


音楽があるならずっと生きていたいかも、とちょっとだけ思った。そんな風に思ったのは初めてだ! 音楽がある限り、喉元過ぎていい加減愛せるようになった過去をいつくしむことができるよね。

 

 

いふ の話

 

暗い帰り道、肩をすぼめて歩いていたら、急に雷の音が聞こえた。

聞こえた次の瞬間には、それが雷の音でないと分かっていた。そして、寒い夜に雷の音なんて聞いたらきっと“畏怖”してしまうだろう、そんな風に思った。

畏怖という言葉は普段なかなか使わない。日常で使うシーンなんて訪れることがない。でも、きっと冷たい空気の中を雷鳴が駆け抜ける瞬間に居合わせたとき、頭の中で弾けるのは“畏怖”なんだ。何だか知らないが、確信めいたものがあった。

角を曲がったら、道路工事のトラックが止まっていた。ああ、この音か。そのとき畏怖の予感は、パチンと音を立ててきれいさっぱり消え去った。

 


冬に雷の音を聞いたことはない。学がないから理由はあまり分からないが、簡単に調べたところ日本の太平洋側で育った人間としてそれはごく一般的なことらしい。

いつか冷たい空気を真っ二つに割る稲妻を目撃したい、そしてその音を聞けたらな。私の妄想の中で、それは一発で両の鼓膜を破るほどに大きく、激しい。

謎かけ

 みたいだねと彼女が言ったので、僕は少しだけいらいらした。みたい、ではなく、実際それは謎かけだった。

 表情が崩れないようそっと右頬の裏を噛んだら、歯の跡がついたそこは口内炎のように膨れていた。変なこと言って僕の気を引きたいだけなんだきっと、そう言って笑ってみたら彼女は首を傾げる。顎の辺りで切り揃えられた髪が、カーディガンを羽織った薄い肩に触れた。かと思うと吹き抜けた風にさらわれ、軽くなびいた。

 たった一人の弟がおかしなことを口にするのは、何も今に始まったことじゃない。そういえばいつだったか、海の水を飲んでみたいと言い出したことがあった。海水は塩辛いし遠目では綺麗に見えてもバイ菌がたくさんいるんだ、普通の子どもならまだしも病気の子どもが飲んだらいけないに決まってる。母と二人でそんな風になだめすかしながら、海の水なんて飲んだことないのにどうして塩辛いと知ってるんだろう、そんなことを思った、確か。

「聞いた話しか知らないけどさ、なんていうか哲学的だよね、きみの弟は」

「哲学、ね……」

「『いらないものが欲しい』……うーん、これとかどう? いらないでしょきっと。ちゃんと洗うけど」彼女は今しがた飲み終わったばかりのリプトンのペットボトルを振ってみせた。

「いや。こないだちょうどペットボトルの蓋あげてみたけど、途上国の子どものワクチンになるから集めたい、ちょうだいって……たぶんペットボトルも同じようなことだよ」

「はぁー、なるほど」

 彼女はそう言って、木製のベンチに深く座り直す。まだ新しい座面が立てるキキ、という軽い音を聞きながら、僕は弟の話を持ち出したことを後悔していた。いやそもそも、秋の風が強まり始めたこんな日に外で勉強しようなんて言い出したこと自体馬鹿だったのかもしれない。まだ枝から落ちるほどではないイチョウの淡い黄色、それでも落ちた一枚が、先ほどから全く進まないシャープペンシルのすぐ真横に並んだ。

「にしても、レポートわざわざ手書きする人なんてほんとにいるんだ。真似したら頭良くなるかな」

「里佳」

「あい」

「やっぱ寒い。教室戻ろ」

「あい」

 長いスカートのお尻をはたきながら彼女は立ち上がった。舞い上がるわずかな砂埃、これはいらないものだろうか。いらないものだったとして、どうやって弟のところに持ち帰ったらいいんだろう。

想像下の指

 

 

外に出て息を吸った。

薄いけれども硬い氷の内でこっそり呼吸をはじめたみたいな春!

せわしない人間はなんと息の吸い方まで忘れてしまう。

呑み込みすぎた空気は胃から出て、喉を通り、また空気に還ってゆくのだった。おわり。

 

🤏

 

知り合いと指を絡め合う夢を見た。

知り合いの指を噛む夢を見た。

ひとりで立つことのできない自分、カワイイ!!!!!と思う時間もあるが、ダサいと思う時間の方がそれより圧倒的に長い。

なんにもダメじゃないよ、そう言ってくれる誰か(あるいは何か)を待ちながら、想像下の指を眺め続けた。

0でも100でもなく、40〜60の間をふらふらと移動する指。

恋人繋ぎを拒んだ指は、それでも私の手を取った。その事実に救われた。以上おしなべて夢。