暮らす豆

ゆるい日記など

情熱

 

通っていた高校は、私の家からだいぶ遠かった。バスと電車を使い、駅から高校まで山を越え谷を越えて歩き、全部で2時間弱。友達や彼氏と話しながら歩く道のりを除いて、ひとりの時間、私はずっと音楽を聴いていた。

 


もともと私は、特定のアーティストの曲を聴く・応援するという行為が苦手だった。好きだと思うなら他人に「ファンだ」と表明するなら、そのアーティストにまつわる全てを知っていないと嫌だったから。仲の良かった友達が重度の嵐オタクだった影響かもしれない。

いくら知っても知りすぎるということのないクラシック音楽やディズニーのパークミュージックを聴きながら、私は高校生活の前半を過ごした。

 


そして後半、転機が訪れる。そんな私がついに、好きなバンドを見つけたのだ!

それからはTSUTAYAに通い、手に入るすべてのCDをiTunesに取り込み、長すぎる通学時間の間、ずっとずっと聴いていた。

本当にずっと聴いていた。広告がなかった時代のYouTube、MVも擦り切れるほど見た。擦り切れるなんてことはありえないけど。

人生で初めて“ライブに参戦”したのも、そのバンドだった。

ひとり訳もわからず最前の手すりを握りしめ(整番がべらぼうに良かった)、後ろから人に思いっきり押され、踊り狂う人を後目に私はただ、熱狂した!!こんな楽しいことがあってたまるか、と。

 


今はたまたま何もしていないけど、もともとは音楽と縁の深い人生だ。

何かにハマる、という体験はそれ以前にも何度かしていたけど、あれほど世界がガラッと変わったのはたぶん初めて。

 


あれから長い年月が経ち、今の私は彼らの新譜を血眼で追ったりはしない。ときどき、昔を懐かしむように聴いてみるだけ。

それでもあの当時の熱狂はきちんと胸を焦がすし、泣きそうなくらいの楽しさはいつでもよみがえってくる。

当時の私は認めなかったかもしれないけど、私は今でもちゃんと彼らのファンなんだ、と思う。

 


冗談みたいな話なんだけど、今日電車を待ちながら音楽を聴いていたら、もう2度と会うことはないであろう人が立っていた。

 


実際のところ、その人本人ではないだろう。よく似た他人というだけだ。

そう思ったとき、たまたまこんな一節が流れた。

 

割とまだ単純明快な23年間の

僕がやっと噛み砕いてきた人生経験を

裏切るくらいの音量で

12時前に叩き起こしてよ

 

難しそうな顔さえ見えない26年間に

詰め込んだ些細な不安の音聞かせて欲しい

軽く流せるくらいの音量で

 

天才か? と思った。語彙力がないな。

 


四半世紀も生きてしまった私は、それなりに多くの他人、その人生の流れにも立っている。流れ同士はぶつかったりまた離れたり、早くなったり淀んだり、それでも決して戻らない。

ずっとそばにあるのは音楽で、思い出したときふいに流してみるそれは、止まった季節の匂いを降らせる! いつまでも変わらず。

 


音楽があるならずっと生きていたいかも、とちょっとだけ思った。そんな風に思ったのは初めてだ! 音楽がある限り、喉元過ぎていい加減愛せるようになった過去をいつくしむことができるよね。