暮らす豆

ゆるい日記など

剥がれる鱗

7/19

日曜日。だんだんまともな人間の定義から外れていっているような気がして自分が怖い。

 


LINEが怖すぎて頭がおかしくなりそうだったので、半日くらい携帯の電源を落として過ごした。携帯を持ちはじめてから「ただ何かを待つ」という動作を長らくしていなかったかもしれない、と思った。隙あらばTwitterをしてしまう毎日だ。

携帯は、人から待つ力を奪っているのかもしれない。じっくりと機を窺うのではなく、兎にも角にも未来に向かって行動を起こすことばかりがよいとされているように感じる、そのためのデバイスがズバリ携帯。

人間の寿命はだんだんと長くなっているというのに、ただぼんやりしていることを許されるのは一体いつなんだろう?

 


スーパーに行けない。広大な敷地から必要なものを選び取ることを、非常に億劫に感じる。かと思えば、どうしても観たいBlu-rayを買うために隣駅まで歩いたりする。頭ではなく脊髄で動いているという感じ、まさに。その方が楽だし個人的には自然なんだけど、私が脊髄で行動すると大抵いいことは起こらない。それに、脊髄で起こした行動は周りの人に説明するのが難しい。大抵後から論理をこねくり回して、さも頭で考えて行動したかのように言い訳を並べ立てることになる。効率が悪いしまるで賢くない。

家に溜め込んである食料を消費する。ピーターラビットか何かで冬の巣ごもりの準備をする話があった気がするけど、なんだったっけ。食料を少しずつ消費しながら、最低限のエネルギーだけ使って生きたいな。部屋の隅で小さく丸まって夢を見たい。

 


今日は久しぶりに小説(らしきもの)を書いた。毎日ブログを書く試みを気に入っているし続けたいけど、ブログに書くもの以外の文章がどうしても疎かになってしまってよくないな。

やっぱり書くことは楽しいし、書いたものがいつかは誰かの手に渡ってほしい、と思う。何かを形にできるほどの技術と忍耐力が備わっていないので、まだ思っているだけですが。

物語を書くときの文体と日記を書くときの文体では、後者の方がふわふわしている感じがする。普通は逆なのでは?

 


今日の一曲:

第八病棟/the cabs

https://music.apple.com/jp/album/%E7%AC%AC%E5%85%AB%E7%97%85%E6%A3%9F/1298389535?i=1298391674