おやすみ帝国
12/14-17
ひとりでいいやと何度も思ったはずなのに、懲りずに昔好きだった人と晴れて恋人同士になった。こんなに幸せでいいのかな、と思ったらやっぱり夢だった。最近嘘みたいに幸せな気持ちになると、それは大抵夢の中だ。何度目を覚ましても学習できないな。
長めの冬休みをもらうので毛先だけ金色に染めようかな。そして冬休み最後の日にばっさりその部分だけ切ろうかな。半歩ぶんくらいわざと逸脱してみることでしか自分を保てない。自分のアイデンティティがかなり粗末なものだということには、だいぶ昔に気づいていた。それでいいし何も恥ずかしくない。恥ずかしいことだと思って無理に澄ました顔をするから恥ずかしいのだ。
文章を後ろから書くと楽しい、ということに気がついた。
いま使っている日記アプリは、書いた日記が新しいものから上に並んで表示される。
適当に題をつけていたらひとつの文章らしく見えて、おもしろいのでここしばらく続けている。ブログのタイトルもそんな感じで命名すればよかった(後の祭り)。
じっくり考えた言葉たちをまとまりにして、大きな話の流れを作っていく、という作業があまり得意ではなく、ふらっとあらわれた言葉についつい目が行ってしまう。だからブログの題を考えるのは結構好きだ。
人の裏表が切り替わる瞬間を目にするのが苦手だ。いやいやあなた1日前は1時間前は1分前は、全然違うこと言ってたでしょう。周りの変わり身の早さに、いつも驚かされてしまう。幼い頃から変わらずにそう。
そういうお前は裏表のない人間と言えるのか?どうなんだ?と聞かれると、私は答案用紙の真ん中、「どちらでもない」に丸をつけざるを得ない。多面性があるっちゃあるけど、それは裏表という形ではない。
裏表があるということはどこかでそれがくるっと回転するということ、回転するということは軸があるということ。私に軸はない。相手に合わせてぐにゃぐにゃどろどろ、粘土のように形を変える。別に意識してやっているわけではなく、いつも気がついたらそうなっているのだ。
だから、あの人と話していた時は確かにこう思っていたけど、1人になると全くそう思えない、という事態が頻繁に発生する。自分で自分の意思を信じられないんだ。限りなく良い言い方をすれば素直なのかもしれないけど、こういうやり方はまあまあ息が苦しい。
この私の性質にひとつだけいいことがあるとしたら、自分に合わない環境を感覚だけで判断できるところだろう。「自分で自分の意思を信じられない」状態は、本来の自分と粘土で作った自分の形があまりにも違いすぎることによって起きる。居心地のよい環境にいるときは、そんなこと頭にも浮かんでこない。
この生きづらさに名前がほしい、と思っていたこともあったし、さんざんその手の本は読んできたように思う。でも(当たり前だけど)、そこで挙げられる生きづらさが私のそれとぴったり重なることはない。生きづらさを既存の型に当てはめても違和感が募るだけで、その違和感の部分に自分らしさが取り残されてしまうのだ。だからもう、名前を付けずに上手くやっていくしかないな、と最近はよく思う。