暮らす豆

ゆるい日記など

小さな川

 

なんだか、私には罪悪感以外何もないような気がしている。

 

前から薄々感じていたことだ。

恥ずかしげもなくブログに書くようなことでもないが、自分以外の他人と話す時、私は相手を分類している。

その区分がなんなのかごく最近まで分かっていなかったけれど、たぶんそれは、自分が罪悪感を感じうる相手なのかどうか……ということなんだと思う。

適切な言葉が見つかるまでは「怖い人」「怖くない人」というような言い方をしていた。それも別に間違いではない。

 

罪悪感は、言葉にして表すことこそできるものの、相手に見えづらい感情だ。罪悪感なしに謝る人なんてこの世の中山ほどいるだろうし、深く考えすぎだとか、なんでそんな簡単なことができないのとか、そんなような意味合いのことを言われたことだって何度もある。

 

でも、そんな簡単なことがいつまでもできない人生だ。

 

ごめんなさい、と過剰に謝ることで相手を疲弊させると気がついてから、謝罪の言葉は感謝の言葉に変わった。

感情の裏にあるものが変わらないから、自分の口の動く形が変わったところで何も起こらない。

相手をすり減らすことがなくなっただけ。胸の裏の重っ苦しい何かは変わらない。

 

大人になっても、ずっと自分だけが何かの通過儀礼をうっかりすり抜け続けているような感覚が抜けない。

周りが当たり前に切り抜けてきた苦労を、私は他の誰か他の何かにぶつけてかわしながら、傷のついていない眼球から見ている。

私に傷をつけるものがあるとすれば、本当にその罪悪感ひとつまみくらい、というか。

 

(ここで冒頭に戻る)

 

数多持っているツイッターアカウントのどれを開いても自分を貶めるようなことしか書けなくなって、きっと見た人の気分を悪くするだろうと思ったら、何もかもいやになってしまった。

フォロワーが0のアカウント一つきり残して全てログアウトしたら、今はだいぶ気分が楽になっている。

私に必要だったのは本物の独り言を遠慮なく言える場、けれども、他人の目を排除して排除して排除した先には低い天井、狭い部屋しかない。

 

は〜あ

 

まともになりたいけど一生まともになりたくない。ひとまずこの罪悪感の塊は持っているだけで苦しいのでどうにかして肩から下ろしたい。

一向に片付かない部屋を綺麗にしたい。溜まった洗い物を片付けたい。LINEを返したい。壊れたiPhoneを直したい。深夜にしょうもないブログを書くのをやめたい。掻きこわし癖をやめたい。

どうにかなりたい。

どうにもなりたくない。

 

楽しみにしている本が明日届く、と書いてから積読本が数えるのも憚られるくらいたくさんあることに気がつく。

文章を読んでいる場合でなく書かなければいけないのに!

断れない色々が一日1センチずつ首を絞めていく、本当の意味で何もしなくてもいい休暇がほしい!と思ったけれど、最近の私は逃げ続けて逃げ続けて結構そういう時間をとっているような気がするな。

 

落とし所が見つからないので、これにて終了!