溜飲
夜ふかししてからシャワーを浴びるのはよくない。
シャワーを浴びている時間は、自転車を漕いでいるとき・洗い物をしているときに次いで何かを思いつきやすい(私調べ)。
おかげで週の中日にすら達していない中途半端な火曜の夜中、こうしてブログを書くはめになっている。
このブログは社会人一年目の頃から続けている。
読み返すなんて世にも恐ろしいことはなかなかする気になれないけれど、掘り返してみればきっとあの手この手で会社を、ひいては会社を内包する“社会”という概念に文句ばかり垂れていたはずだ。
会社で求められている人物像と会社で働いている自分との間には、かなり大きな隔たりがある。
会社で求められている人物はわりあいストレートに社会で求められる人物と繋がるような気がしていて、それは分かりやすく論理的に話し、自分も相手も得するようなソリューションを見つけられる人。(横文字を使ったことを、もう後悔している)
でも私は分かりやすく簡潔にまとめられた言葉でそこにある“何か”を規定することが嫌で、そういうわがままで社会にそぐわない自分は押し込めて、懸命に論理的な人間のふりをしている。
人に化けて村に忍び込む狸は、こんな気持ちだろうか。
高校生の頃読んだ、姫野カオルコ「終業式」に印象的な言葉があった。
それは高校生だったとある登場人物に対し、憧れの先生「モジリ兄貴」が綴ったもの*1。「若い時はとかく自分だけが汚いものであるように思えて仕方ないかもしれないが、そんなのは大人になっても変わらない。ただ大人になった僕たちは、そんな自分の一面にいちいちうろたえたりしなくなるだけ」。原本が手元にないので正確な引用が出来ず心苦しいけれど、大筋は合っているはず。
長いことこの言葉が棘のように刺さって、抜けることも消えることもない。私はいつまで経っても自分の汚い一面、他人に見せない一面にうろたえ続けているし、自分という存在を客観的に見ることから逃げている、と思う。
でも、最近の私は結構元気だ。
平日は社会人として論理的かつ役に立つ人間のふりをして振る舞いながら、休日は自分の心の赴くまま型にはまらない生活をしている。二つを統合することはどう頑張っても出来なかった。とはいえ切り離せるものでもないので、こうして夜中にくだを巻いて生きている。
たぶんこれも広義の自傷なのだ、と思う。人里に生きる狸として尻尾を出さぬよう日々をやり過ごしながら、私は毎日確認している。人里で身につけた人間としてのスキルが私の大切にしたい生き方にはこれっぽっちも役に立たないということを。
モジリ兄貴に、ふかふかの尻尾を見せつけてやりたい。根性が汚くても、いい大人になってから中学生みたいに恥ずかしいことを考えていても、ロジカルシンキングを心底疎んでいても、人並みの顔して社会人やってる狸がここにいる。明日も9時に出勤する。そういうことだ。
https://music.apple.com/jp/album/blow-my-mind/1423821521?i=1423822240
*1:この小説は、全編誰かから誰かへの手紙だけで構成されている