暮らす豆

ゆるい日記など

アンストッパブル

 

 

 人間という生き物は、夜よりも朝の方が身長が高くなる、と聞いたことがある。
 朝起きてベッドに入るまでの間、身体を縦にしていることで重力の影響を受けて背が縮むとかなんとか、そんな話。夜の間できちんと元に戻るのか、その辺の話は分からない。
 
 もしその話が本当だったら、たぶん今日の私は歴代最高身長を更新しているだろう。それくらいには、長く眠った。
 置き配で頼んだウーバーイーツを受け取るために一瞬部屋のドアを開けただけ、後の時間は眠っているか、それか横たわってYouTubeを見ていた。四捨五入すればどちらも同じ話だ。
 
 何だかやたらに疲れているというか、身体を引きずっても精神がうまくついてこないというか、そういう状態が続いている。二日ぶりに外へ出て喫茶店に入りこの文章を書いている今は、十分に休んだだけあって少しその感覚がマシになっている気がするけど。
 
 周りの人から「思い立ったら即行動派」「体力がある」という評価をいただくことが最近特に多い。それはこれまでの人生で私が受けてきたのとは全く真逆の言葉で、つまりは私は腰が重いよわよわ女として二十余年ほどを生きてきたわけだけど、それだけ時間が経っているのにまだ自分の知らない自分をしることができて嬉しい。面白い。
 身体に心がついてこないこの感覚だって、今まで身体をある程度乗りこなすことができていたからこそ新鮮に感じる、のかもしれない。
 考えうる限り最も“ダサい”言葉で表すとするなら、たぶん私は人生をサボり続けていた。限界まで己に向き合って力を発揮するため努力を継続していれば、今の私はここにはいないだろう。
 代わりにどこにいたのかは分からないし、そうしてこなかったこそ私は二十を過ぎても人生オモロいな〜と思えるから、別に良い。「別に良い」と言ってしまうと負け惜しみ臭くなってしまうから言い方を変えれば「それがいい」。
 
 
 
 恋愛ができなくなって初めて人生が豊かになった、みたいなことを口にすることがあって、でもこっちは半分負け惜しみかもしれない。
 自分以外の人間にぴたりと寄り添う以外の選択肢を得たことは私にとって幸福なこと、その道はこれまで絶対に見つけられなかっただろうけど、でもその道を経てなおまだ「だ、誰かと一緒にいたいでござる……」になってしまう、私は私の物語を完結させるための文脈として、ひとりで立てるピープルでいたかったのに。
「残念! 人生はまだまだ続きます」ということだろうか。良くも悪くも、私はどこまでも健やかなのだった。
 
 
 
 凡庸である、という事実が私にとってたぶん一番の呪いで、だからこそ他人からそれを否定してもらっても素直に受け入れることができない。
 心の底から信頼を置いている人の「もっと自分に自信を持ってほしい」という言葉を、それでも信頼しきれない。へらへら笑って、そうっすかね、とか言って、また自分の体温で温められた巣に引きこもってしまう。
 悲しみを武器にするなんて最低! いくら自分自身の感情といえど。
 
 呪いが呪いであるのは(それが過去現在未来いつのものかにかかわらず)どこかで一欠片でも甘みを含んでいるためだと思っていて、例えば自分を呪いの道に引きずり込んだ誰かのことを心底憎んでいるだけだとしたら簡単にそれを打ち破れるはずだ、とかそんな話。つまるところ、私は凡庸であることの悲しみに縋っている。卵が先か鶏が先か、私のそういうところが凡庸なのだと理解していて、それでも抜け出すことができない。
 
 
 
 
 
 狭くも広くもない部屋で不服そうな顔をして窓ガラスを延々見つめている君のことが、理解できない。
 ここには何もかもがある、というのは言い過ぎだけれど、望めば何でも手に入ると思えばそれもある意味では真実だった。窓ガラスは文字通り窓ガラスで、君が見つめているのは別にその向こうに広がる果てしない世界、なんかじゃなかった。どうしてそれが分かるかというと、隣の建物が目と鼻の先まで迫っていて、ガラスの向こうに見えるのは汚らしいコンクリートの壁ただそれだけだったから。
 君はもう三百四十八時間二十三分七秒もこの場所にいて、あぐらをかいたり横になったりその場をうろうろしてみたり。矜持の影が薄くなりこそすれ確かに残ったその目を、それでも確かに開き続けている。
 本当に睨みつけたいのは窓ガラスじゃなく、ぼくなんだ。そう思いたかった。沈黙を守り続ける君を尻目にキッチンでひとり手を洗いながら、抱えた膝に思い切り顔を埋め涙を流す、あるいはどこかしらに自ら傷を作ってできた血溜まりに身を預ける、つまりとてもとても不健康な君の姿を想像(妄想)していた。

もしゃもしゃ

 

非情な身体が心を引きずって無理くり外に連れ出しているような感じ。

 

不健康でない、至って元気、目に見えない耳で聞こえない何かが真綿のように首を絞めているだけ。

見えなくて聞こえないなら幻覚と同じだし無視すればいいのに、それができず、逃れるために睡眠をとる。

そして、“最低限やるべきこと”の枠から外れた“やっておいた方がいいこと”は私の手を離れ、ぐんぐん遠ざかっていった。

 

平気そうな顔で笑っているうち本当に平気っぽくなれる、これはいいこと。

本当は平気でないので家に帰り着いた瞬間どろどろに溶けてしまう、これはよくないこと。

今痰を吐いたら真っ黒くねっとりしていそう。喉には何も詰まっていなかった。

 

今割と世界のことも自分のことも信じられているはずなのにどうしてこんな気分になるT_Tと悩んでいます!

 

意味を成す記号に収束していきたくありません😭!!

 

と思うのは、実際のところ私が記号、アルファベットで言うところの“e”程度にはありふれた性質を持っているからなんだろうな。

 

嘔吐が出来ない代わりみぞおちのあたりに指を突っ込んで、なけなしの自分らしさをぶちまけながら目先のしんどさをやり過ごす。

そのゲロのこと、キラキラとか虹とかで修正しなくても世の中に流してしまっていいとか、思っていない?

 

 

プレゼントしていただき部屋に飾った花(そんなことをしたのは、生まれて初めてだ)のいのちが、ゆっくりと終わりに近づいている。

終わりに近づけば近づくほど匂いが濃くなって、いただいたばかりの時には感じなかった生物としての気配が、今手で触れて分かりそうなくらい強い。

生活をしていきたい。人としての徳は高くなくていい……五月の風のしめっ気とか、裸足で触れたアスファルトとか、本当はそういうところに知りたいことがあるはずだった。

溜飲

 

夜ふかししてからシャワーを浴びるのはよくない。

シャワーを浴びている時間は、自転車を漕いでいるとき・洗い物をしているときに次いで何かを思いつきやすい(私調べ)。

おかげで週の中日にすら達していない中途半端な火曜の夜中、こうしてブログを書くはめになっている。

 

 

このブログは社会人一年目の頃から続けている。

読み返すなんて世にも恐ろしいことはなかなかする気になれないけれど、掘り返してみればきっとあの手この手で会社を、ひいては会社を内包する“社会”という概念に文句ばかり垂れていたはずだ。

 

会社で求められている人物像と会社で働いている自分との間には、かなり大きな隔たりがある。

会社で求められている人物はわりあいストレートに社会で求められる人物と繋がるような気がしていて、それは分かりやすく論理的に話し、自分も相手も得するようなソリューションを見つけられる人。(横文字を使ったことを、もう後悔している)

でも私は分かりやすく簡潔にまとめられた言葉でそこにある“何か”を規定することが嫌で、そういうわがままで社会にそぐわない自分は押し込めて、懸命に論理的な人間のふりをしている。

人に化けて村に忍び込む狸は、こんな気持ちだろうか。

 

高校生の頃読んだ、姫野カオルコ「終業式」に印象的な言葉があった。

それは高校生だったとある登場人物に対し、憧れの先生「モジリ兄貴」が綴ったもの*1。「若い時はとかく自分だけが汚いものであるように思えて仕方ないかもしれないが、そんなのは大人になっても変わらない。ただ大人になった僕たちは、そんな自分の一面にいちいちうろたえたりしなくなるだけ」。原本が手元にないので正確な引用が出来ず心苦しいけれど、大筋は合っているはず。

長いことこの言葉が棘のように刺さって、抜けることも消えることもない。私はいつまで経っても自分の汚い一面、他人に見せない一面にうろたえ続けているし、自分という存在を客観的に見ることから逃げている、と思う。

 

でも、最近の私は結構元気だ。

平日は社会人として論理的かつ役に立つ人間のふりをして振る舞いながら、休日は自分の心の赴くまま型にはまらない生活をしている。二つを統合することはどう頑張っても出来なかった。とはいえ切り離せるものでもないので、こうして夜中にくだを巻いて生きている。

たぶんこれも広義の自傷なのだ、と思う。人里に生きる狸として尻尾を出さぬよう日々をやり過ごしながら、私は毎日確認している。人里で身につけた人間としてのスキルが私の大切にしたい生き方にはこれっぽっちも役に立たないということを。

モジリ兄貴に、ふかふかの尻尾を見せつけてやりたい。根性が汚くても、いい大人になってから中学生みたいに恥ずかしいことを考えていても、ロジカルシンキングを心底疎んでいても、人並みの顔して社会人やってる狸がここにいる。明日も9時に出勤する。そういうことだ。

 

https://music.apple.com/jp/album/blow-my-mind/1423821521?i=1423822240

 

*1:この小説は、全編誰かから誰かへの手紙だけで構成されている

溜飲

 

夜ふかししてからシャワーを浴びるのはよくない。

シャワーを浴びている時間は、自転車を漕いでいるとき・洗い物をしているときに次いで何かを思いつきやすい(私調べ)。

おかげで週の中日にすら達していない中途半端な火曜の夜中、こうしてブログを書くはめになっている。

 

 

このブログは社会人一年目の頃から続けている。

読み返すなんて世にも恐ろしいことはなかなかする気になれないけれど、掘り返してみればきっとあの手この手で会社を、ひいては会社を内包する“社会”という概念に文句ばかり垂れていたはずだ。

 

会社で求められている人物像と会社で働いている自分との間には、かなり大きな隔たりがある。

会社で求められている人物はわりあいストレートに社会で求められる人物と繋がるような気がしていて、それは分かりやすく論理的に話し、自分も相手も得するようなソリューションを見つけられる人。(横文字を使ったことを、もう後悔している)

でも私は分かりやすく簡潔にまとめられた言葉でそこにある“何か”を規定することが嫌で、そういうわがままで社会にそぐわない自分は押し込めて、懸命に論理的な人間のふりをしている。

人に化けて村に忍び込む狸は、こんな気持ちだろうか。

 

高校生の頃読んだ、姫野カオルコ「終業式」に印象的な言葉があった。

それは高校生だったとある登場人物に対し、憧れの先生「モジリ兄貴」が綴ったもの*1。「若い時はとかく自分だけが汚いものであるように思えて仕方ないかもしれないが、そんなのは大人になっても変わらない。ただ大人になった僕たちは、そんな自分の一面にいちいちうろたえたりしなくなるだけ」。原本が手元にないので正確な引用が出来ず心苦しいけれど、大筋は合っているはず。

長いことこの言葉が棘のように刺さって、抜けることも消えることもない。私はいつまで経っても自分の汚い一面、他人に見せない一面にうろたえ続けているし、自分という存在を客観的に見ることから逃げている、と思う。

 

でも、最近の私は結構元気だ。

平日は社会人として論理的かつ役に立つ人間のふりをして振る舞いながら、休日は自分の心の赴くまま型にはまらない生活をしている。二つを統合することはどう頑張っても出来なかった。とはいえ切り離せるものでもないので、こうして夜中にくだを巻いて生きている。

たぶんこれも広義の自傷なのだ、と思う。人里に生きる狸として尻尾を出さぬよう日々をやり過ごしながら、私は毎日確認している。人里で身につけた人間としてのスキルが私の大切にしたい生き方にはこれっぽっちも役に立たないということを。

モジリ兄貴に、ふかふかの尻尾を見せつけてやりたい。根性が汚くても、いい大人になってから中学生みたいに恥ずかしいことを考えていても、ロジカルシンキングを心底疎んでいても、人並みの顔して社会人やってる狸がここにいる。明日も9時に出勤する。そういうことだ。

 

https://music.apple.com/jp/album/blow-my-mind/1423821521?i=1423822240

 

*1:この小説は、全編誰かから誰かへの手紙だけで構成されている

ずっとティーンエイジャーだった

 
 ようやく自分の生きづらさに合点がいった! と思っているだけできっと実際のところそんなに上手くはいかずまた泣いたり喚いたりするのだろうけど。自分の中の、曇ったまま永久に晴れないと思われた部分に少しずつ切れ間が見え始めたので、やっぱり何かの一区切りはついたと言えるだろう。
 それを認めるために、今日は少し文章を書きたい。
 
 小学校高学年か、それか中学生の時だったかもう忘れてしまったけれど、とにかくティーンに片足突っ込んだ時期のこと。
 月並みな言葉だけど、私はその時自分のことが好きだった。大抵のことは上手くこなせて、友だちもそれなりにいて。傷つきやすいきらいはあったものの、繊細とは言えない程度に鈍感で。まあそんなことどもはどうでもよくて、私が自分を好きだった一番の理由とは、ずばり他に負けない個性を持っているとためだった。
 今にして思えば、そんな何に自信を持っていたのか分からない。ごく一般的な(というにはいささか子どもに甘い両親のいる)家庭に育って、これといって特別なこともせず。強いていうなら、他の子どもが好きになるものから少しずれたものを好んでいた節があったかもしれない。でもそれは嗜好の話で、私自身の個性にはならない。
 とにかく私は自分の個性を信じていた。揺るぎない個性を持っていることはその時の私にとって最も尊いことだった(これは今でもあまり変わっていないけど)。私の内から生まれるものは、きっと何かを動かす力を持っている。そんな風に思っていられた。
 だから、習ってまだ数年のピアノを弾きながら、ある時こんな風に思ったのだ。『私なら、作曲ができちゃうんじゃないの?』胸がはずんだ。それまで信じていた自分の個性を、目に見えるところへ取り出していつくしむ作業。わくわくしながら鍵盤に指を置いて、私はそのまま固まってしまった。
 本当に何も、音の一つさえも、浮かんでこなかったのだ。
 普段は何時間でも好んで弾いていたピアノの蓋を閉め、その場から離れた。あの瞬間は、とにかく恐ろしかった。仲良くしていた友達が実は空想上の存在であることに気づいたとか、感覚としてはその辺りが近いと思う。ドアの向こうにいると信じて会話を続けた大切な友だち、いざドアを開けたらそこは空っぽで、椅子のひとつさえもない。
 安い絶望だと今でも思う。先述の通り私はただピアノを数年ぽっち習っただけで、作曲の勉強なんてしたこともない。何も浮かんでこないのが当たり前だ。でもその時の私は目の前に広がったがらんどうの空間に驚いてしまって、すぐにドアを閉めてしまった。そこから、平凡であることへの恐れが私の中に住み着いた。それはドアの向こうではなく私の肩の後ろに立ち、ずっと私のそばにいた。
 
 私は何も生み出すことができない、平凡で無価値な人間だ。
 ずっと私を苛んできたその恐怖が薄れ始めたのは、実はつい昨年のことだった。何があったかといえば、二次創作を始めたというのが一番大きい。
 このブログを読んでくれている人は、二次創作より一次創作に縁が深い人が圧倒的に多いと思う(思い込みかもしれないけど)。キャラクターや物語を一から考える一次創作と違い、二次創作はある一つの完成した作品をベースに『あったかもしれない風景』を描き出すものだ。何か書けるようになりたいと思いつつ、小さい頃に垣間見たあのがらんどうの部屋に向き合うのが怖くて一歩踏み出せない。ずっとそうやって燻っていたけど、二次創作を始めたことで何か、自分の中に新しい流れが生まれたように思う。相変わらず部屋の中は空っぽだけど、窓が開いた、と言えるのかもしれない。流れ込んできた風、風が運ぶ外のにおいや枯れ葉、そんなものを飽きずに眺めているうち私は何冊も本を出していた。純粋に楽しかった。個性がない私の中からも、確かに生まれ出るものがある。四半世紀生きて、やっとその事実に気づくことができた。
 
 先日、戸田真琴さんが監督をしている「永遠が通り過ぎていく」という映画を観た。映画の内容についてはまだ触れたくない。それくらい私にとって大切で、得たものを安易に言葉にして損なってしまうくらいなら長いこと黙っておきたいと思うような、そんな作品だった。この記事を読んでいる人の中でまだ未視聴の方がいたら、是非観ていただきたい……というより「観たい」と表明してほしい。上映館が多くないので。
 ここでは、映画本編でなく映画が終わった後の戸田真琴さんの言葉についてだけ話したい。戸田さんは「みんなに向けて書くとどうしても上手くいかないので、いつも特定の一人に宛てる気持ちで作品を書いている。実在の人物に宛てて書くこともあれば、そうでないことも、また自分自身に宛てて書くこともある」というようなことを仰っていた。メモを取っていた訳ではないので間違っている箇所があるかもしれないけれど、私の心にはそういう意味合いで届いてきた。
 その言葉は、映画本編と同じく私にとってかなり衝撃的なものだった。それまで何冊も二次創作で本を出しておいて、私には「誰かに宛てて書く」という発想がまったくなかった! その後考え込んで、私はずっと自分自身に宛てるつもりで文章を書いていた、ということに気がついた。二次創作だから作品に私が登場することなんてないし、キャラクターへ安易に自分自身を投影してしまうことの危険性を理解してそういった表現はできる限り使わないよう気をつけている。それでも、自分自身を救いたくて、物語を通じて一つの輪っかを綴じたくて、ずっと書いていた。便宜上ここまでは一次創作と二次創作を明確に区分して書いてきたけど、結局のところ自分を含む誰かに宛てて書くものであるという本質は同じ。意味があると思える何かを生み出したくて書き進めた文章には、『自分を救いたい』という、にじみ出した一つの答えがあった。
 
 『自分を救いたい』。ここまで来てもやっぱり、平凡な発想だと思う。この言葉だけで自分の揺るぎない個性を信じられるとしたら、私は相当楽観的だ。
 私は平凡をずっと嫌ってきた。平凡、他の人に簡単に混じり合ってしまう、同じ色に染まってしまうということ。でも平凡であるということが他者と同じであることを意味するなら、私が私を救うために書いた文章は、他の誰かを救うこともできるんじゃないか。
 傲慢は罪だと思う。私はまだまだ未熟で、長い文章を書くことが得意でないし、誰かに何かを伝えられるレベルまで辿り着くには途方もない時間が必要だろう。いや、そもそも人の心を動かしてやろう救ってやろうと思って文章を書くこと自体とんでもないエゴ、人との間に引くべき境界線を大幅に超える行為だと思っている。
 だから私は、一つ約束事を決めた。私は今後もずっと、自分を救うための文章を書き続ける。風通しが良くなっただけでいまだにがらんどうの部屋を直視するのが怖くても、そこにいつか何かが芽吹くと信じたいから。その道を進み続けて、その過程で自分と同じように感じている人を救うことができたら、それこそが私の思うベストだ。
 
 今、同時に三本くらい小説を書いている。仕事だって忙しいというのに、本当にアホな話だ(資格を取れという職場からの要請はなあなあにして先延ばしし続けている。そろそろ本当に怒られそう)。一次創作も二次創作も混在していて、結構脳内が混乱している。
 でも、自分自身を救いたいという筋が一本通ったことで息がしやすくなった。何かを生み出さなければいけない、あるいは他者に尽くさなければいけないなどといった強迫観念から自由になって、私は未来永劫自分自身のために書き続けたい。
 もしかすると、私はこれまでずっとティーンエイジャーだったのかもしれない。この頃はそう思っている。もちろん十代はとっくの昔に終わったけれど、自分がこわいもの、乗り越えなければいけないものを直視せずに進んできた人生だった。だから些細なことで簡単に傷つき、すぐ自分の殻に引きこもってばりいた。
 でも、もうその悩みは私を通り過ぎてしまった。大きい子どもから小さい大人になって、これからの自分が何をできるのか、今は結構楽しみだ。

 

四天王

四天王

  • MAPA
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

music.apple.com

/(スラッシュ)

 

一回温かくなって、その後またすぐに寒くなったので、身体が季節を秋と勘違いしている。

 

半分嘘だ。

一週間近く部屋の中に引きこもっているために、私にはほんとうの気温が分からない。

窓を開けたとき入ってくる風は、外の空気であって既に内(家)の空気だと思う。

 

小さい頃「小説をたくさんとピアノを一つ置いた部屋に、いつまでも閉じこもっていたい」と願ったことがあった。あの頃はまだ、ピアノを弾くことが自分のアイデンティティだと思っていた。

今と違ってそれなりに快活な子どもだった時代、それでもそういう願いを持っていたということは、やはり根っから暗い人間なんだろう。

 

実際にたくさんの本に囲まれ、ついでに好きなゲーム、音楽、漫画、Youtubeの動画やらなにやら手に届く環境で引きこもりをしているが、実際はそんなに性に合っていない、この生活。

私は外の空気を吸いながら歩いたり、自転車に乗ったりすることが好きだ。

それができないと、古い二酸化炭素がいつまでも胸のあたりにわだかまって、どうでもいいことにこだわり続けてしまうような。

毒気が抜けていかないような、そんな錯覚にとらわれてしまう。

 

いや、これも半分は嘘だ。

出社しなくていいのは、まぎれもなく幸運なことと言えるから。

 

 

 

最近、ゲーム実況集団『ナポリの男たち』にハマり、ニコニコ有料会員になった。

以前から切り抜き動画のお世話になっていたが、生放送が聞けるのとアーカイブがいつでも楽しめるのとに惹かれて、気が付いたら入会していた。

 

入会の決め手になったのは、こちらの切り抜き動画*1だ。ゲームをしているけど全然ゲームをしていない。これは矛盾のない文章です。

youtu.be

 

「野菜の話をして精神的に不安定になる」という、タイトルからして意味不明の動画だけど、見たらタイトル通りの内容だ。視聴者は二度困惑することになる。

 

コメント欄の「理知的なメンヘラ」という表現が本当に言い得て妙、シンプルに好きなんですが、どうしてYoutubeのコメントには一度しかいいねが押せないのか。

 

何か同じことをし続けていたり真夜中になったりすると、自分でも制御できない何かのアクセルを間違えて踏んでしまう瞬間がある。

その感覚がリアルで、共感性羞恥とも違う何らかの感覚にウワァーッと襲われるけど、同じように疲れている周囲が一見雑に(その実たいへん丁寧に)フォローしていて、そこまで含めた空気感のリアルさ……

百人が百人好きなカレーでも揚げパンでもないけど、実はちょっと好きなチリコンカン*2が給食に出て、誰にも言わずニヤニヤしている。そんな気分になる。

 

もともとゲーム実況者に対してあまりいい印象がなかったというか、イキリ陰キャ集団だろ……と斜に構えて見ていた節があったけど、彼らはイキリではなく真の陰キャ集団なので、見ていて本当に安心する。介護疲れにも効く。いずれガンにも効くようになるだろう。

 

 

*1:正直もっと面白い動画なら他にいくらでもあるし他の方の紹介を読んでほしい。ただ、私に一番刺さったのがコレだったというだけです

*2:もっと分かりやすい料理にしたかったのに、該当するメニューがこれ以外に思いつけなかった