最果てって何
久しぶりだ。
昔読んだ本に「宇宙が誕生する確率は、机に肘をついたとき手がすり抜ける確率より低い」と書いてあった。うろ覚えだけど。
その話から私が得たのは宇宙の神秘に対する感慨ではなく「机を手がすり抜ける可能性はゼロじゃないんだ……」というしみじみとした驚き。
今ペンを取ろうとした指が、アスファルトに向かって踏み出した足が、虚空を捉えるかもしれない。
そう思った瞬間宇宙も確率も何もかもどうでもよくなってしまい。
私の中に残されたのは、ただ机に肘をつくときの胸の高鳴りだけだった。
中学だか高校だかのとき、ふいに「生きることは黒歴史を作り続けることだ」と思ったことがある。
用があってこのブログの内容を読み返しながら、もう一度その気づきを反芻した。
今だから分かる、それは真理だ。
『モモ』という小説には、主人公の大親友として年老いた掃除夫ベッポというキャラクターが登場する。
彼は汚れた道路を掃除するとき、自分の後ろに綺麗な道が広がっていくのを感じながら、言葉にしきれない人生の真理について、かけがえのない風景について、思いをめぐらす。
私が通った後の道は全然綺麗でもなんでもない、むしろ薄汚かったりみすぼらしかったり、ときどきは目を覆いたくなるようなものだったりする。
でも私は毎秒その道を歩き、毎秒黒歴史を生産しながら、自分にとって本当に意味のあるもの、を見つけたい。
きっと私が見つけるのは考えや意見などといったものではなく、概念と呼ぶのがふさわしい曖昧なものだけど、それでもいい。いや、それがいい。
白くて清潔な殻、の中に、緑色でぶよぶよした得体の知れない何かが詰まっている。
ぶよぶよは知らぬ間に膨張して、その手を伸ばし殻を割る。それでもなお大きく大きく広がり続けたので、もはや殻は意味をなしていない。
殻は清潔で、艶がなく、常に正しい。
緑色のぶよぶよは、思わず目を背けたくなるほど醜い。でも太陽の光が当たると、思いがけず宝石のような輝きを見せる。
私は、そう信じていたい。
何らかのレター
ことばを使って何かを作りたい、何者かになりたいという気持ちだけが拡散していて一行に方向性が定まらないな
書き続けていれば見えてくると思ってたけどそんなこともなく。私は何がしたい?
以上、twitterの下書きより。
私は理路整然と話しているように思われがちだけど、頭の中は常にとっ散らかっている。
そしてその思考のうち大事なものほど世の中の法則ではなく、いわゆる「自分ルール」に則って成立している。そのことに気が付いたのはごくごく最近だ。
先述の通り「ことばを使って何かを作る」、これが私のやりたいことである。
作家になりたいのかと言われると、なんとなくそうではないような気がする。だったら歌人かと問われると、それもまた違う。
なんというか、そういったもろもろを飛び越して、私はただ純粋に書く人でありたいし、書いたものを何らかの形にしてみたいんだと思う……伝わるだろうか。
先日イベントに参加したのはとてもいい経験だった。世の中にはまだ知らない素晴らしい作品がたくさんあって、そして、自分の作品を選んで買ってくれる人がいる。創作とそこから生まれる交流の、もっとも原点に近いところを体験できたように思う。
また何か作って、イベントに参加してみたいな。その気持ちに嘘は全くない。
全くないけれど、じゃあ自分がどういう方向に進んでいくのか?イベントへの参加こそが自分の本当にやりたかったことなのか?と聞かれるとうまく答えられない。
うーん、書いていてうんざりするけれど、私は本当に面倒くさい性格をしている。友達の誰かにこの文章を見せたら、間違いなくうだうだ言っていないで行動しろと言われることだろう。
ボトルメッセージを海に流すときってこんな気持ちなのかもしれないな。
題もつけない
なんだか、生きたいように生きるには人生は短すぎるな、とずっと思っているような気がする。
世界はばか広くて、私の見たことのない空も読んだことのない本も聴いたことのない音楽も星の数ほどあって、そしてその中には、私が一生をかけて大事にしたいと思えるものがきっとたくさんあるはずなのだ。
でも、現実にはそれらに出会えないまま歳をとる。身体は老いていくし、その他に社会的な制約も多くなっていくだろう。例えば仕事で一定の地位を得て、気ままに暮らすわけにはいかなくなる、とか。
だから私は自分を責めるのをやめた。それが自分にとって一番もったいない、時間を消費する行動だと判断したから。
暗くて後ろ向きなところが私の源流で、それを断ち切ったらもう何も出て来なくなってしまうんじゃないだろうかと考えて、そしてその貧困な考えにも嫌気がさしていたけど、自責の念を捨てたらまるで羽が生えたように自由になった。
自由になった、けど、依然として人生は短い。
私が成し遂げたいことは、死ぬまでに半分も達成できないような気がする。
ぜんぜん時間が足りないぞ。どうしよう。
ふわとろお布団
年が明けて数日、皆さまいかがお過ごしでしょうか。私は立派な寝正月を過ごしておりました。年末はごろごろ、元旦からごろごろ、2日になってもごろごろ。
そんな生活をしていたせいなのか(せいなのか?)初夢は元彼と幸せに同棲する夢だった。
幸先悪っ!と思って調べてみたら、元恋人と同棲する夢は相手に対する未練を断ち切れたことを示す、らしい。幸先悪くなかった。ほっとしました。
そんな調子です。
しばらくブログの更新ができていませんでした。
年末は仕事(やめたい)が忙しかったというのと、それと他に始めたこともあり、ちょこっとブログの更新が疎かに……
最近は短歌を書きためています。これが、前述の「他に始めたこと」。
言うまでもなく木下龍也さんの「天才による凡人のための短歌教室」に影響されてのことですが、、
自分の頭の中身を取り出して文章にする、という作業はすごく好きなんだけど、長い文章を書く、ということがなかなか私には難しく。
絶えず新しい景色が浮かんでくるのでひとつの作品にまとめられない!なんて言ってみたら聞こえはいいですが、単に飽きっぽいのと思考が短絡的なのとが原因ですね。
そんなときに「天才による〜」に出会い、これは運命かと。
やってみるといかに短歌が難しいか分かるけど、ちょっとこれは気に入ってるかも、、なものも既にあり。
どうやって公開していくかは全然決めていないので、毎日作って下書き状態で手元に置いています。
あ、これ、世間的には何もやってないように見えるな、、ということに気がついたのが先ほど。
私には夢があります。というか、夢が最近増えました。
1個は前にも書いたけど、文学フリマに出展すること。
まだ出展する作品も何もない状態なので、文字通り雲を掴むような話、ただの夢なのですが…
そんでもってもう1つの夢は、1つ目よりもさらに突拍子もなく、そして頑張ったところで叶えられるのか分からん、というタイプの夢。
ちょっとここに書くのはいろんな意味ではばかられるのでTwitterでDMくれたらこころよくお教えします…なんかの詐欺みたい。
でも、どちらの夢にも共通点がある。
それは、書き続けること・同じような夢を持った人と仲良くなること・の2つが近道になる、ということ。
なので、2021年のテーマはとにかくストイックに書くこと、そしてそれを発信してこれまでより多くの人に読んでもらうことにしようと思います。今決めました。
2020年のうちに種は蒔いたはず。
これまで言い訳にしてきたアレコレ(仕事とか仕事とか仕事とか)と上手く付き合ったり、時に突き放したりしながら書き続けたいなと思います。
まじめな雰囲気になってしまいました。
いろいろ宣言してしまったけど、昨年見てもらった占い師に「あなたは目標を持ったらいけない」と言われたので、あんまり気張りすぎずグンニャリと前を目指そうみたいな気持ちです…がんばろう。
がんばろうね。
持ち物
12/2
fuzkueに寄ってカポーティの「遠い声 遠い部屋」を読了。久しぶりに深く深く沈み込んでいくような読書ができて、大満足だった。一緒にランディングの屋敷も地中深く沈んでいった。私はfuzkueという場所がとても好きだ。
読み終えたあと、「詩人になるか、でなければ、何にもなりたくない」という言葉が頭に浮かんだ。当然カポーティの言葉ではないんだけど。
現代を選んで生まれてこれたのは私にとって幸せなこと、のはず、でも今の私は自分の進みたい道にまっすぐ向かうことができないな。
「遠い声 遠い部屋」を読み終えたあとには、くすんだ金色をした丸いドアノブと、きらきら光る夜露が残った。どうやったらあんな風に、美しいものを美しいまま描き出せるんだろう。
急行に乗れば早く帰れるのに、お尻が各駅停車の座席に吸いついて離れない。開けっ放しの自動ドアから冷たい風がずっと吹き込むので、足首がすっかり冷えてしまう。帰ったら急いで洗濯機を回さなきゃ。明日着る服もないんだ。
変拍子の音楽には輪郭がないので、聴いているうち自分の外殻も静かにほどけていくような気がする。リラックスするあまり自分の中身がこぼれ出してしまいそうなので、今日はカーテンをきっちり引いて、真っ暗な中で眠りたい。誰にも見られないように。
https://music.apple.com/jp/album/%E7%AC%AC%E5%85%AB%E7%97%85%E6%A3%9F/1298389535?i=1298391674
だめモード
11/29
人生のこと何も考えたくないなと思いながら人生は続く。ちっとも速度をゆるめてくれない。
昔からの知り合いを大事にしたいのに、ずっと自分の殻にこもっていたい期間が来てしまった。誰も自分のこと知らないところに行きてー、などと思う。思うだけ。
アンビバレントな国で生きている。別に人との付き合い方だけじゃない。働きたいのに働きたくないとか、強くなりたいけど強くなりたくないとか、そんなのばっかり!
私はいま全然大丈夫そうに振る舞えているし、側から見てそんなにやばそうな兆候はないはず。でも、いつも自分のことを静かに見ているもうひとりの自分が、これはやばい、やばいぞと騒いでいる。ここ最近ずっと。
ちゃんと診断されたことはないけど、たぶん私は嘔吐恐怖症だ。文字におこすのもちょっと怖い。
私自身はもう13年、つまり人生の半分以上(書いてて自分でも驚いた)そういう事態に陥ることがなかった。というかそれを避けるために必死で床をのたうち回ったりしたこともある。胃腸炎になったときは本当につらくて、お腹に菌?ウイルス?がいなくなったあとも口の中に咀嚼された食べ物があるだけで気持ち悪くなって、それで一瞬だけがりがりに痩せた。
話がそれた。
そう、私は嘔吐恐怖症なんだけど、最近駅とか街中で見る床の汚れやタイルの剥がれた部分、無造作に落ちているゴミなどが、それに見えてしまうことが本当に多くなった。出かけた日は、少なくとも1日に3回は見間違いをしてしまい、そのたびに焦って振り返りながら確認している。もちろん予感が正しいこともあるけど、大抵はなんでもない。
私が本当に苦手なのは自分がその状況に陥ることとその状況に居合わせることで、別にそれが落ちているのを目撃しただけではそこまで動揺しない。普段であれば慣れなければ慣れなければ、と暗示をかけながら、むしろじっと見つめるくらいだ。
それなのに、やっぱりだめだ。はじめは深く考えていなかったけど、やっぱりいろんなものがそれに見えてしまう。別に最近それに関して怖い思いをした覚えはないので、見間違いの原因は全く別のところにあるんじゃないかという気がしている。例えば将来への不安とか。
こんなに不安なのはきっと寒いせいだと思ってこの冬はじめての暖房をつけた。部屋は暖かくなったけど、不安は増すばかり。どうして?
ねえ聞いて!が口癖の友だちをふと思い出した。口癖だけ切り取ると話したがりな感じがするし実際その子はすごくお喋りだけど、本当に大事に思っていることや悩んでいることは、日が暮れてから無意味に散歩しているときや、家に泊まりに行ってパジャマに着替え部屋の電気を消した後にしか教えてくれなかった。
今私はひとりで、パジャマを着てうずくまっている。電気を消すことはできない。電気を消したら寝る時間で、寝たら明日が来て、明日が来れば未来が来る。今どんな選択をしたとしてもそれは未来の生き方に直結するような気がする。
あーあ、夜をゴムみたいにびよーんと伸ばせたらな!
実際は納豆の糸みたい、伸ばすことはできるけど細くて頼りなくて、風が吹くだけでぷつんと切れる。そしてきちんと朝が来る。
甘い蜜吸いたい
11/16-18
何かになりきる習慣、第2弾。
今日は信号待ちしている間、道路の端っこに落ちている葉っぱのかけらになりきった。
ビルによって切り取られた青い空がただ広がっている視界。車が近くを通り過ぎるたび、はたはたと揺れる身体。揺れるだけ。本当に揺れるだけ!
帰り道同じ道を通ったけど、当然そこに葉っぱのかけらはなかった。
スーツの裾からのぞく同僚の足首、血管の川がくるぶしで綺麗な二股に分かれていて、ちょっとドキッとする。結構疲れている。
駅の連絡通路でちょっとくらっときて、まるで白っぽい風景がずっと続くかのように錯覚した。
最寄駅のひとつ手前で降りて歩いてやろうかと思ったけど、かかとが靴擦れぎみなので断念。私はどうしてこんなにすぐ靴擦れしてしまうんだろうか。絶対に靴擦れしない靴がほしい、たとえばひんやりしたジェルで出来てるとか。雲みたいに捉えどころがなくふわふわしてるとか。
数日前から急に仕事を頑張れなくなってしまった。頑張れないというか、気持ちが緩んでいるわけではないのに、なぜか日が沈むと何も頭に浮かばず、手がまったく動かない!日が短くなり始めているというのに。
私は自分について一番詳しい人、自分を一番甘やかせる人になりたい。だって私の人生、周りに優しくされてばかりで、人から優しくされることのありがたさも息苦しさも、よく分かるから。
だから、誰にも負けないくらい自分を甘やかしてやる。自分が一番望むものを迷わずに与えてやる。それが罪悪感を感じずに生きるための唯一の道なので!
大好きな場所でたっぷり時間を過ごした。自分を甘やかすことは堕落とイコールではないはず。ちゃんと前に進む!