暮らす豆

ゆるい日記など

題もつけない

なんだか、生きたいように生きるには人生は短すぎるな、とずっと思っているような気がする。

 

世界はばか広くて、私の見たことのない空も読んだことのない本も聴いたことのない音楽も星の数ほどあって、そしてその中には、私が一生をかけて大事にしたいと思えるものがきっとたくさんあるはずなのだ。

でも、現実にはそれらに出会えないまま歳をとる。身体は老いていくし、その他に社会的な制約も多くなっていくだろう。例えば仕事で一定の地位を得て、気ままに暮らすわけにはいかなくなる、とか。

 

だから私は自分を責めるのをやめた。それが自分にとって一番もったいない、時間を消費する行動だと判断したから。

暗くて後ろ向きなところが私の源流で、それを断ち切ったらもう何も出て来なくなってしまうんじゃないだろうかと考えて、そしてその貧困な考えにも嫌気がさしていたけど、自責の念を捨てたらまるで羽が生えたように自由になった。

自由になった、けど、依然として人生は短い。

私が成し遂げたいことは、死ぬまでに半分も達成できないような気がする。

ぜんぜん時間が足りないぞ。どうしよう。

ふわとろお布団

年が明けて数日、皆さまいかがお過ごしでしょうか。私は立派な寝正月を過ごしておりました。年末はごろごろ、元旦からごろごろ、2日になってもごろごろ。

そんな生活をしていたせいなのか(せいなのか?)初夢は元彼と幸せに同棲する夢だった。

幸先悪っ!と思って調べてみたら、元恋人と同棲する夢は相手に対する未練を断ち切れたことを示す、らしい。幸先悪くなかった。ほっとしました。

そんな調子です。

 

しばらくブログの更新ができていませんでした。

年末は仕事(やめたい)が忙しかったというのと、それと他に始めたこともあり、ちょこっとブログの更新が疎かに……

最近は短歌を書きためています。これが、前述の「他に始めたこと」。

言うまでもなく木下龍也さんの「天才による凡人のための短歌教室」に影響されてのことですが、、

自分の頭の中身を取り出して文章にする、という作業はすごく好きなんだけど、長い文章を書く、ということがなかなか私には難しく。

絶えず新しい景色が浮かんでくるのでひとつの作品にまとめられない!なんて言ってみたら聞こえはいいですが、単に飽きっぽいのと思考が短絡的なのとが原因ですね。

 

そんなときに「天才による〜」に出会い、これは運命かと。

やってみるといかに短歌が難しいか分かるけど、ちょっとこれは気に入ってるかも、、なものも既にあり。

どうやって公開していくかは全然決めていないので、毎日作って下書き状態で手元に置いています。

あ、これ、世間的には何もやってないように見えるな、、ということに気がついたのが先ほど。

 

私には夢があります。というか、夢が最近増えました。

1個は前にも書いたけど、文学フリマに出展すること。

まだ出展する作品も何もない状態なので、文字通り雲を掴むような話、ただの夢なのですが…

 

そんでもってもう1つの夢は、1つ目よりもさらに突拍子もなく、そして頑張ったところで叶えられるのか分からん、というタイプの夢。

ちょっとここに書くのはいろんな意味ではばかられるのでTwitterでDMくれたらこころよくお教えします…なんかの詐欺みたい。

 

でも、どちらの夢にも共通点がある。
それは、書き続けること・同じような夢を持った人と仲良くなること・の2つが近道になる、ということ。

なので、2021年のテーマはとにかくストイックに書くこと、そしてそれを発信してこれまでより多くの人に読んでもらうことにしようと思います。今決めました。

 

2020年のうちに種は蒔いたはず。

これまで言い訳にしてきたアレコレ(仕事とか仕事とか仕事とか)と上手く付き合ったり、時に突き放したりしながら書き続けたいなと思います。

 

まじめな雰囲気になってしまいました。
いろいろ宣言してしまったけど、昨年見てもらった占い師に「あなたは目標を持ったらいけない」と言われたので、あんまり気張りすぎずグンニャリと前を目指そうみたいな気持ちです…がんばろう。

がんばろうね。

おやすみ帝国

12/14-17

ひとりでいいやと何度も思ったはずなのに、懲りずに昔好きだった人と晴れて恋人同士になった。こんなに幸せでいいのかな、と思ったらやっぱり夢だった。最近嘘みたいに幸せな気持ちになると、それは大抵夢の中だ。何度目を覚ましても学習できないな。

 

長めの冬休みをもらうので毛先だけ金色に染めようかな。そして冬休み最後の日にばっさりその部分だけ切ろうかな。半歩ぶんくらいわざと逸脱してみることでしか自分を保てない。自分のアイデンティティがかなり粗末なものだということには、だいぶ昔に気づいていた。それでいいし何も恥ずかしくない。恥ずかしいことだと思って無理に澄ました顔をするから恥ずかしいのだ。

 

 

文章を後ろから書くと楽しい、ということに気がついた。
いま使っている日記アプリは、書いた日記が新しいものから上に並んで表示される。
適当に題をつけていたらひとつの文章らしく見えて、おもしろいのでここしばらく続けている。ブログのタイトルもそんな感じで命名すればよかった(後の祭り)。
じっくり考えた言葉たちをまとまりにして、大きな話の流れを作っていく、という作業があまり得意ではなく、ふらっとあらわれた言葉についつい目が行ってしまう。だからブログの題を考えるのは結構好きだ。

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人の裏表が切り替わる瞬間を目にするのが苦手だ。いやいやあなた1日前は1時間前は1分前は、全然違うこと言ってたでしょう。周りの変わり身の早さに、いつも驚かされてしまう。幼い頃から変わらずにそう。
そういうお前は裏表のない人間と言えるのか?どうなんだ?と聞かれると、私は答案用紙の真ん中、「どちらでもない」に丸をつけざるを得ない。多面性があるっちゃあるけど、それは裏表という形ではない。
裏表があるということはどこかでそれがくるっと回転するということ、回転するということは軸があるということ。私に軸はない。相手に合わせてぐにゃぐにゃどろどろ、粘土のように形を変える。別に意識してやっているわけではなく、いつも気がついたらそうなっているのだ。
だから、あの人と話していた時は確かにこう思っていたけど、1人になると全くそう思えない、という事態が頻繁に発生する。自分で自分の意思を信じられないんだ。限りなく良い言い方をすれば素直なのかもしれないけど、こういうやり方はまあまあ息が苦しい。
この私の性質にひとつだけいいことがあるとしたら、自分に合わない環境を感覚だけで判断できるところだろう。「自分で自分の意思を信じられない」状態は、本来の自分と粘土で作った自分の形があまりにも違いすぎることによって起きる。居心地のよい環境にいるときは、そんなこと頭にも浮かんでこない。
この生きづらさに名前がほしい、と思っていたこともあったし、さんざんその手の本は読んできたように思う。でも(当たり前だけど)、そこで挙げられる生きづらさが私のそれとぴったり重なることはない。生きづらさを既存の型に当てはめても違和感が募るだけで、その違和感の部分に自分らしさが取り残されてしまうのだ。だからもう、名前を付けずに上手くやっていくしかないな、と最近はよく思う。

子供たち

12/9

 

まあまあ長い付き合いになる友達とお酒を飲んで、すごく楽しくなって、たくさん喋って!そしてひとりになって、初めからひとりだったときよりずっと悲しい。どうして?
駅のホームで崩れ落ちそうになる。どうやって自分を繋ぎ止めたらいい。明日の私はどうやって呼吸している?
ここは都会で、何百匹も何千匹も何万匹も人がいて、それなのに私を知っている人はただの1人もいない。単純にそのことが悲しい。今私が死んでしまったらきっとここにいる何百匹かは私のことを認識してくれるだろうけど、生き続けるだけなら、私は誰の心にも引っかかることはない。すいすいと、まるで泳ぐかのように、孤独でいられる。孤独がいいのに寂しくて、寂しいのに孤独がよくて、こんな自分のアンビバレンスに何度も振り回されてきた。こんな状況では自分の悲しみにアクセスしてくれる確かな手段が必要で、今の私にとってはそれがとあるアーティストの音楽で、だから縋るように毎日その人たちの音楽を聴いている。本当に毎日、暗闇の中で光を探すみたいな必死さで。
私は人の悲しみに寄り添いたい。励ましや慰め以外のやり方で。でもそれはもしかして、自分の悲しみに誰かが寄り添ってくれることを望んでいるだけ?
何もいらないのに全部ほしい。ずっと眠っていたいのにずっと起きていたい。いつも対極の間をゆらゆら揺れているのに悲しみだけがずっと染み付いて消えない。この悲しみは水溶性ではないため、いくら涙を流したところでどうしようもないのだった。ただ睡眠だけが私を別の世界に連れて行ってくれるので、私はひしと枕を抱きしめる他ない。

1000年

12/5-12/6
午前中に起きだして自転車を買いに行くつもりだったけど、予想通り早起きに失敗。
だいぶ太陽が傾いてから、ようやく家を出る。


とっても大好きな喫茶店に行ったけれど満席で、ちょっとかなしい気持ちになりかけたけど、そこで働いている後輩が私に気づいてケーキをサービスしてくれた。
私ってやっぱり人の優しさで生きてんなあ、なんかこう、もっと確固たるものを礎にして生きなければなあ、目の前にあって両手でがっしり掴めるような何かを。と思う。

 

久しぶりに小説らしきものを書く。電車の中とかでなく、まとまった時間を使って書くのはいつぶりだろう。
いつも頭に浮かぶものを浮かぶままに書いてしまうので、なかなか一つの話にまとめることができない。
書くこと自体は好きだしいつまででもやれるように思うけど、それらを順序だてて組み立てて……というやつが、どうにも苦手だ。
ただ趣味で書くなら苦手なままでいいけど、趣味の域を超えて生きがいとして育てていくにはまだまだ努力が必要。

 

小説を書くときは、「Coffee Talk」というゲームのBGMを流していた。
深夜だけオープンしているカフェが舞台のゲームで、常連として小説家の女の子が出てくる。
心地よい音楽を聴いていると、確かになんとなく筆が乗るような気がしてくる。こんなに良質な作業用BGMは他にないのでは?
ゲームをプレイしていない人にも、ぜひ聴いてもらいたい。

https://music.apple.com/jp/album/coffee-talk-original-soundtrack/1495590564

 

日が暮れる頃、かねてから行ってみたいと思っていたお店に行くため電車に乗って都会へ出る。
意を決して向かったのに、お店のドアの前に立つとどうしても勇気が出なくて、回れ右して駅まで戻ってきてしまった。
私は本当に人見知り、特に既に出来上がっているコミュニティに飛び込んでいくのが本当に苦手な人見知りなので、こういうことはしょっちゅうだ。
まあ、今はその時ではなかったんだろう、と無理やり自分を慰めながら帰りの電車に乗る。

 

帰りの電車、携帯を見ると友達から「オンラインでゲームやろうぜ」と連絡が来ていた。渡りに船!
家に帰って暖房をがんがんかけ、でかい声で通話しながらゲームをする。空気が乾燥しているせいで、しきりに咳が出る。
きりのいいところでゲームを終わらせたのに、その後やたらと話し込んでしまった。
知り合いの噂話。お互いの好きな音楽のこと。仕事のこと。価値観のこと。恋愛のこと。
ほとんど沈黙することもなく、気づけば朝の5時だった。

 

あまりにも私が迷走しているので(人生において)、自分探しに付き合ってもらうことに。
「私って、人生において何を大事にしてそうに見える?」と質問してみた。自分の価値観を客観的に知るためのワークだ。
友人1「大事なものだと思ったものをすごく大事にしてそう」
友人2「人との境界線を大事にしてそう」
なるほどなあ、と思った。どっちも的を得ている。
私は自分の世界を自分の好きなものでいっぱいにしておきたい方なので、友人1の言っている通りだと思う。
さらに自分が人からとやかく言われたくないので、相手の領域を不用意に侵さないように気を付けている。これは友人2の言う通りだ。
自分で自覚してはいるが言語化できていなかったところなので、やっぱり友人の存在は偉大だ。

 

先々週から先週にかけて私は鬱々としていて、苦しいけどそれを口に出すことができない、誰かを頼ることができない、どうしようどうしよう、と自ら深みにはまっていた。
でも、いざ話してみたら友達はきちんと私の話を聞いてくれた。抽象的でよく分からないことばかり言っているにもかかわらず。
素直に話せば意外とみんな助けてくれるんだ、今の私はそう思えるけど、1か月後も同じように周りを信じられるかは分からない。

 

次の日はまた昼に起きだして、自転車を買いに行った。
ギアつきにするかさんざん迷って、結局ギアのついていない茶色の自転車を買った。
名前はこないだまで読んでいた「遠い声 遠い部屋」の登場人物「ランドルフ」にした。

 

夜になってから、自転車に乗って近所をぐるぐる徘徊した。夜道をひとり歩くのは心許ないけど、自転車に乗ると向かうところ敵なし!といった気分になれるのはどうしてだろう。
家の周りの好きな道を選んで走った。耳がちぎれそうに寒かったけど、そんなことはどうでもよくなるくらい楽しかった。
この冬はどうせ娯楽らしい娯楽もないだろうし、ランドルフと一緒にたくさん旅をしようと思う。

持ち物

12/2

fuzkueに寄ってカポーティの「遠い声 遠い部屋」を読了。久しぶりに深く深く沈み込んでいくような読書ができて、大満足だった。一緒にランディングの屋敷も地中深く沈んでいった。私はfuzkueという場所がとても好きだ。

 

読み終えたあと、「詩人になるか、でなければ、何にもなりたくない」という言葉が頭に浮かんだ。当然カポーティの言葉ではないんだけど。
現代を選んで生まれてこれたのは私にとって幸せなこと、のはず、でも今の私は自分の進みたい道にまっすぐ向かうことができないな。

 

「遠い声 遠い部屋」を読み終えたあとには、くすんだ金色をした丸いドアノブと、きらきら光る夜露が残った。どうやったらあんな風に、美しいものを美しいまま描き出せるんだろう。

 

急行に乗れば早く帰れるのに、お尻が各駅停車の座席に吸いついて離れない。開けっ放しの自動ドアから冷たい風がずっと吹き込むので、足首がすっかり冷えてしまう。帰ったら急いで洗濯機を回さなきゃ。明日着る服もないんだ。

 

変拍子の音楽には輪郭がないので、聴いているうち自分の外殻も静かにほどけていくような気がする。リラックスするあまり自分の中身がこぼれ出してしまいそうなので、今日はカーテンをきっちり引いて、真っ暗な中で眠りたい。誰にも見られないように。

 

https://music.apple.com/jp/album/%E7%AC%AC%E5%85%AB%E7%97%85%E6%A3%9F/1298389535?i=1298391674

だめモード

11/29

 

人生のこと何も考えたくないなと思いながら人生は続く。ちっとも速度をゆるめてくれない。

 

昔からの知り合いを大事にしたいのに、ずっと自分の殻にこもっていたい期間が来てしまった。誰も自分のこと知らないところに行きてー、などと思う。思うだけ。

 

アンビバレントな国で生きている。別に人との付き合い方だけじゃない。働きたいのに働きたくないとか、強くなりたいけど強くなりたくないとか、そんなのばっかり!

 

私はいま全然大丈夫そうに振る舞えているし、側から見てそんなにやばそうな兆候はないはず。でも、いつも自分のことを静かに見ているもうひとりの自分が、これはやばい、やばいぞと騒いでいる。ここ最近ずっと。

 

ちゃんと診断されたことはないけど、たぶん私は嘔吐恐怖症だ。文字におこすのもちょっと怖い。

私自身はもう13年、つまり人生の半分以上(書いてて自分でも驚いた)そういう事態に陥ることがなかった。というかそれを避けるために必死で床をのたうち回ったりしたこともある。胃腸炎になったときは本当につらくて、お腹に菌?ウイルス?がいなくなったあとも口の中に咀嚼された食べ物があるだけで気持ち悪くなって、それで一瞬だけがりがりに痩せた。

話がそれた。

そう、私は嘔吐恐怖症なんだけど、最近駅とか街中で見る床の汚れやタイルの剥がれた部分、無造作に落ちているゴミなどが、それに見えてしまうことが本当に多くなった。出かけた日は、少なくとも1日に3回は見間違いをしてしまい、そのたびに焦って振り返りながら確認している。もちろん予感が正しいこともあるけど、大抵はなんでもない。

私が本当に苦手なのは自分がその状況に陥ることとその状況に居合わせることで、別にそれが落ちているのを目撃しただけではそこまで動揺しない。普段であれば慣れなければ慣れなければ、と暗示をかけながら、むしろじっと見つめるくらいだ。

それなのに、やっぱりだめだ。はじめは深く考えていなかったけど、やっぱりいろんなものがそれに見えてしまう。別に最近それに関して怖い思いをした覚えはないので、見間違いの原因は全く別のところにあるんじゃないかという気がしている。例えば将来への不安とか。

 

こんなに不安なのはきっと寒いせいだと思ってこの冬はじめての暖房をつけた。部屋は暖かくなったけど、不安は増すばかり。どうして?

 

ねえ聞いて!が口癖の友だちをふと思い出した。口癖だけ切り取ると話したがりな感じがするし実際その子はすごくお喋りだけど、本当に大事に思っていることや悩んでいることは、日が暮れてから無意味に散歩しているときや、家に泊まりに行ってパジャマに着替え部屋の電気を消した後にしか教えてくれなかった。

 

今私はひとりで、パジャマを着てうずくまっている。電気を消すことはできない。電気を消したら寝る時間で、寝たら明日が来て、明日が来れば未来が来る。今どんな選択をしたとしてもそれは未来の生き方に直結するような気がする。

あーあ、夜をゴムみたいにびよーんと伸ばせたらな!

実際は納豆の糸みたい、伸ばすことはできるけど細くて頼りなくて、風が吹くだけでぷつんと切れる。そしてきちんと朝が来る。