苦しみについて
6/11
今日はちょっと、「空気を読む」ということについて話したい。
私が小学生?中学生?くらいの頃、「KY」という言葉が流行った。
「KY」は他の大多数の流行語と同じ末路を迎え、今では「KY」と口にする人はほとんどいない。
でも、私は思うのだ。「空気を読む」という概念は、消え去ってなどいない。
「KY」という言葉が使われなくなったのは、「KYでない」ことが当たり前になりすぎてしまったからだ。
空気を読める人にも、空気を読めない人にも、それぞれ生きづらさがある。
私がおかしいと思うのは、空気が読めない・あるいは読まないことを怠慢とみなす風潮だ。
「気が利かない」などの文句にも通ずるところがあると思う。
空気を読める、というのは才能だと私は思っている。
私は、明らかに読めない方の人間だ。その場に合わせてへらへら笑うことは得意だけど、それ以上はできない。なんとなく今自分は相手をイライラさせているな、くらいのことしか分からない。
そんな私でも、もしかしたら鍛錬を積めば空気を読める人間になれるのかもしれない。
でもそうなれたとしたら、それは私の努力の結果だ。
何が言いたいかというと、空気を読むのは誰にでも簡単にできることではなく、そこには才能ないし努力が不可欠だということだ。
なのに世の中、空気を読めて当たり前と思っている人が多すぎる。
「空気を読め」と強要するということは、「周りの機嫌を取りつついい感じに立ち回れ」と言ったふわふわした命令を出しているのと同じではないだろうか。
これこそ甘えだと、私は思うのだ。
空気を読もうともしない人に対して、怒りを募らす気持ちは分かる。
でも、その怒りを一旦脇に置いて考えてみることはできないだろうか。
「いや、察してちゃんになっていないか?相手に甘えて伝えることをサボってないか?」と。
○○だからこんなことは当たり前、周りが全て教えてくれるなんて大間違いだ、確かにそうかもしれない。
でも、原因を相手だけに求めるのは間違っている。
世の中そんなに単純じゃない。自分には自分の事情があるのと同様、他人には他人の事情がある。
「空気が読めない」と言われたとき、空気の読めない人は困惑する。曖昧な言葉によって問題の本質は隠され、どの行動や態度を責められたのか分からなくなってしまうからだ。
自分の中で考え抜いても答えが見つからなかったとき、空気の読めない人はだいたい2種類どちらかの行動を取る。
自分を責めた周りを信じなくなるか、自分を信じなくなるか。
どちらにせよ、空気の読める人が暮らす世界からはますます距離を置かざるを得なくなる。
空気を読め!ということが100%悪いことだとは思わない。そもそもこの世には100%正しいことも100%間違っていることもないのだから。
でも、ときどきは考えてほしいのだ。そもそも空気を読むことは本当に必要なことなのか。
それが生活を不健全にしていないか。
今日の一曲:
Utopiosphere/Mili
https://music.apple.com/jp/album/utopiosphere/906238165?i=906238180