鏡
1
午後6時18分。雨が降ったせいか、窓の外はすべてが青っぽく沈んでいる。
どこからか煙の匂いが漂って、それは湿っぽい空気とそぐわないはずなのに、妙に景色に馴染んでいた。
2
夢を見た。会社の人と大学時代・高校時代の知り合いと、今まで出会った人たちがごちゃまぜになって大きな体育館に集まっている。
高校時代の、あまり話したことのない先輩が唐突に「○○(わたし)ちゃんのオーラカラー見てあげるよ!」と言う。占いの類が昔から好きなわたしは、喜んで了承する。
先輩は服の上からわたしの鎖骨のあたりを両手でぺたぺたと触って、「うーん。アーバン!」と言った。先輩によると、アーバンは黒とグレーの間くらいの色らしい。
それってチャコールグレーじゃない?と思ったけれど、言い出せずに終わる。
目が覚めてからネットで調べたけれど、どうやら「アーバン」という色はこの世に存在しないらしい。
わたしが何者なのか、結局分からずじまいだ。
3
自分がどうしてこの世界で生きづらさを感じるのか考え続けていたけれど、今日ようやくその答えがひとつの形を為した。
「ないことにされている正解」を見つける能力が、絶望的に欠けているからだ。
大人は……もういい加減大人である自分が三人称でとしてこれを使うのはみっともないけれど、ちょっとの間許してほしい。
大人は、物事についてよく「正解はないので自分で考えてみましょう」と言う。
でも、正解が存在しない事柄って、実はほとんどないように思う。
例えば何かの作品について「自由な感想」を求められたとき、わたしの頭は凍りついたように動かなくなってしまう。
何も言えずにいるわたしを見て、感想を求めた人は「そんなに深く考えなくていいよ、感想に正解なんてないし」と優しく発する。
でもそれを受けてわたしの頭は、余計に混乱して動かなくなってしまう。
だって、「感想に正解はない」と言い切ったその人の頭の中にはおそらく「想定される感想の範囲」がある。
わたしがもし「とんでもない醜悪な作品を見せやがって、ひどく不快です」と答えようものなら驚き、きっと怒ることだろう。
相手の心の中には期待する言葉のビジョンが明確にあるくせに、あえてそれを口にせず「正解なんてない」と言われてしまうと、わたしの脳味噌は混乱の果てにフリーズしてしまうのだ。
仕事をしていると、「ないことにされている正解」にとてもよく出会う。
「まずは自分で考えた通りにやってごらん」と言われたり、あるいは何も言われず明らかに少なすぎる指示だけ出されて、どう振る舞うのかを見られる場合もある。
それらの行為は未熟なわたしが自分の頭でものを考えられるようになってほしい、という善意に端を発しているのだろう。
でも職場にいる間、世間話に対する相づちや何かを断るときの表情の作り方など、常に「ないことにされている正解」を血眼になって探しているわたしからしたら、それらはもう完全に対処できる範囲を超えているのだ。
我ながらものすごく社会不適合者っぽいなと悲しくなるけれど、事実だからどうしようもない。
わたしには散歩という趣味があるけれど、散歩の何が素晴らしいって、何ひとつ正解がないことだ。
散歩には社会的意義が皆無である。意義がないということは、誰にも期待されないということ。つまり一から十まで自分で決めて、例えどんなにおかしなやり方をしても、誰にも文句を言われる筋合いがないということ。
散歩をしている間はなんでも自由に考えられるし、足はしっかりと地についているにもかかわらず背中に大きな羽が広がっていくような感覚を覚える。
ときどき、「ないことにされている正解」を持たない人々と出会う。期待も何も持たないフラットな心のまま「自由な感想」を求めることができる人たちは、たしかに存在する。
「ないことにされている正解」を極度に恐れるわたしは、草食動物的生存本能でそういう人を見つけ出すことができる。
彼らはみな優しくて、ほどほどに乾いていて、人との適切な距離をわきまえている。
自分もそういう人になりたい、ならなければと常日頃から思っているけれど、それは存外に難しい。