ただしくいきる
わたしは嘘がきらいだ。
心の底から何かに熱中している人を見ると、大げさに感動してしまう。なぜならそこには絶対に嘘がないから。
嘘をきらい続けることでわたしは毎日ぎりぎりと自分の首を絞めている。
完全にひとりでいるとき、そこには真実しかない。わざわざ自分を偽る理由はどこにもないからだ。
だが、誰かとのコミュニケーションが生まれた時点で事態は大きく変わる、とわたしは思う。
ひとりでいるときの自分が真実であるとするなら、誰かと交わることを目的に形成した「自分」は真実と呼べるのだろうか。
それを確かめるために、わたしはいつの間にか頭の中に監視官を置くようになってしまった。
脳内の監視官は慣れた相手といるときは鳴りを潜めているが、そうでない相手といるときは途端に口数が多くなる。今言ったことは本心か?勢いに任せて話しすぎていないか?自分を偽って大きく見せていないか?
そしてひとりでいるときも、自分はどういう人間なのか、一体何者なのか、わたしという人間の「真実」とはなんなのか、しょっちゅう考えてしまう。
嘘はきらいだ。そこに理由なんてない。ただ嘘のないものに惹かれるというだけなのだ。
ただそれを貫こうとすると、自分が偽物である可能性を絶対に許せなくなってしまう。
真実だけを信じたいから、その主体たる自分も出来る限り真実の状態に近くありたい。
きっと、嘘と真実はそんなに綺麗に切り分けられるものではないんだろう。少しの嘘とたくさんの真実が世界を救ってくれることだって往々にしてある。それは頭ではわかっているけれど、わたしは自分が何者なのか追求することを決してやめられない。