暮らす豆

ゆるい日記など

ハンドクラップ

 

 

 

「しにたい」が口先で割れると「しりたい」になること、実は結構前から気が付いていた。

 

 

 

Suicaの残高が2桁になっていた。

チャージしようと財布を出したら千円札が数枚、お昼に家賃を振り込んだ時なぜ口座から引き出しておかなかったのか。僕っていつもこうなんだ、トホホ〜、と脳内ののび太が話を締めても、世界はフレームアウトもしなければ幕切れもしない。ごく普通に電車に乗り、家に帰る。

 

 

 

自分の中の何かが滞留している。何かが澱んだままになっている。

なんか澱んでんな、とニヤニヤできるようになったのはここ数年の成果……とはいえ、澱みの先にあるものが何か、引きずり込まれたその奥で誰がニコニコしているのか分からずに頭を抱える。寒い。あまりにも寒い。ずっと怒っている。

湖のそばの家

 

人ぎらいなわけではないのに、どうして一人でいる方がずっとずっと落ち着くのか。

ここしばらくずっと考えていて一つの結論にたどり着いた。

 

たぶん私が本当に嫌いなのは、二人称の状態で誰かに所有されることなのだと思う。

所有というと言葉の範囲が狭いけれど、自分がどういう人で、何をしようとしているのか、把握(仮)された状態になるのがいやだ。

人が人を理解することなんてできるはずがなく、把握(確定)は永遠にやってこないのに、そのままそれを受け止めて暮らすのはしんどい。しんどいというか、ずっと背中の真ん中あたりが痒いままというか、そういうどうにもならなさがある。

面倒くさい人間だ!

誰もいない部屋にへんな姿勢で座っている、今みたいな時間が、いっとう良いのだ。

 

恋愛をしたら、二人称がなくなる。正確には、二人称を排除するための激烈なエネルギーに消されてしまう。

どうしてそうなのかわからないけど、昔からそうだった。

一人でいたいと思っていたくせに、いざ自分のねばついた殻を破って中に誰かが入ってくると、過剰なまでに同一化しようとしてしまう。二人称を重ね合わせて歪な一人称を作ることに心を砕いてしまう。

西加奈子の「白いしるし」を読んでいつまでも恐怖しているのは、自分のそういうおそろしさをこの年になってようやく理解し始めたからだと思う。

 

この間26歳になった。小学校時代のことを思い出すとなぜだか泣けてきてしまう。クレヨンで描いたみたいにほろほろ輪郭のくだけたそれは、私にとって今や心温まる風景画でしかなくなってしまった、その事実が悲しい。

「このつらさを忘れてしまいたくない」と中学生の私は日記に書いた。嫌な苦味は消えないけど、それ以外はほとんど上書きされて消えてしまった。

要請

 

映像でもない、言葉でもない、けれどもその両方の特性を持ったイメージがふっと立ち昇ってくることがある。

そういう話をします。

 

 

会社の人に「バリバリ働くの向いていないっていうか……今の職種向いてないっていうか……」みたいなことをゴニョゴニョ告げたのが、一昨日。

本当は「今すぐ辞めさせてくれ!」と言いたかったけど、自分でも制御できないところにどかんと座り込んで動こうとしない八方美人が、そうさせてくれなかった。

私の要求は単に「早く帰りたいと思っている人」のそれとして受け止められたようだった。そりゃそうじゃ。

 

今日改めて、会社の人から言われた。

「会社としては別に早く帰ってもらっても問題ないけど、あなたは『真面目』で『責任感が強い』から結局遅くまで残ってしまう。自分の中でもうちょっと仕事に折り合いをつけたら良い」と。

🤪←表示されてるかな。本当にこんな顔をしそうになった。

 

私は『真面目』でも『責任感が強』くもない。

そういう面が全くないとも思わないけど、少なくとも自分のことをそういう人に分類することはない。

いやいや〜と適当に流したら、謙虚だねと笑われ、身体の力が抜けた。

 

 

帰りに駅まで歩きながら、例の映像でも言葉でもないイメージが湧き上がってきた。

アスファルト、街頭に照らされ、足の裏にぴったり縫い付けられて浮かび上がる影。

私は真面目な私から、嫌でも逃れられないのかもしれない。

私はピーターパンじゃないから、私の影は私から離れて自由自在に逃げ回ってくれたりもしない。

 

問題は、影が私になったり、私が影になったり、しょっちゅう入れ替わりを起こすことだ。

アスファルトの裏側にも世界が広がっていて、向こう側では私が影で、影が私。

ぐるぐると世界が回転し続けていて、平衡感覚を失い続けている、苦しい。

 

いくら入れ替わっても、足の裏に影が縫い付けられているその事実だけは不変。

肉を突き破って通した糸がいまだに身体に馴染まず、顔をしかめつづけている。

私のしかめっつらは、外からは笑顔に見えるらしいけど。

 

短歌を詠んだり文章を書いたりするごとに、嘘の明るさに照らされたせいで影になった『私』が濃さを増してゆく。

それはもう、影でなく私だと言っても差し支えないくらいに。

私はずっと思ってる、いつか私になりたい。

私と影とを交互に通過しながら、ずっとずっと、思い続けてる。

正しさとか……

 

 

昨日、仲良くしてもらっている方と「覆水盆に返らず」という言葉の話をした。
今日の仕事中、自分の部屋でコップに手をぶつけて思い切り麦茶をこぼした。いや〜なタイムリー具合だ。

パソコンは無事だったけど、個人的に大事にしたかったものが水没するなどした。
仕事に支障の出るような大事には至らなかったものの、紙でできているもののインクは溶け、そうでないものも麦茶の匂いに塗れ、まあまあ嫌な気持ちになった。
今の状況の暗喩? 

大切なものを机の上に散らかしている私が、自分にとって大切なものに向き合うことをせず流されるままに仕事をだらだら続ける私が、悪い。
麦茶くさくなっても仕方ない。

 

夜に爪を切ってはいけない、というのは幼い頃からの教え。

「どうして夜に爪を切ってはいけないのか」と尋ねた記憶はあるのに、実際親が何と返事をしたのかは思い出せない。

自分が親なら、死に目にあなたと会えなくなるから、と回答するのはとても苦しいだろう。

そういえば、18時が夜なのか判断できずに爪切りを持ったままぼーっとしていたから、麦茶をこぼしたのだった。

 

私の生きてきた歴史は繋がっていそうで、別に繋がっていない。そこに文脈を見出せるのは、ぴったり張り付いて全てを見てきた私だけ、と思うと、いくらだって幸せにも不幸にもなれる。

親の死に目に会うことが果たして幸せなのか。

それを決めるのは私がこれから生きる文脈、少なくとも今の私は私が死ぬことよりも親が死ぬことの方が怖いので、この命題を見えないところに追いやって人生をヘラヘラやり過ごす他ない。

音楽は

 

肝心なときに、何もしてくれない。

 

ばちぼこに嫌なことを今まさに経験しているとき、決まって音楽はそこにいない。

代わりに鼓膜を震わせるのは誰かの罵声、苛立ちを隠そうともしないため息、耳に入るだけで苦しくなるような轟音。

あるいは、徹底的な無音。

 

音楽は救いなんかじゃない。

嫌なことを綺麗さっぱり忘れさせてくれる音楽なんてない。

音楽は空間を自由に飛び越える代わり、時間という制約に縛られていて、いつか必ず終わりが来てしまう。

なんらかの手段で再生することはできるけど、それはあくまで““再””生であって、リピートを繰り返した先に何かが生まれるわけじゃない。

 

それでも、私は音楽を聴き続けている。

その道を選択できるのは、月並みな言葉だけど、本当にしあわせなことだ。

 

音楽は救いなんかじゃない。

でも私はありがたいことに、そんな音楽をお守りにして生きるやり方を知っている。

ばかみたいに泣き腫らした顔して、ばかみたいに拳握りしめて、ばかみたいにむくんだ足でなんとか立ち続けることを知っている。

 

NO MUSIC NO LIFEなんてうそだ。

私は食べなくても寝なくても死ぬけど、音楽がなくても死なない。

その代わり、出会えなければ私が私でいられなかっただろうと、そう思える曲を宝物みたいに抱えている。

 

音楽があって本当によかった。

小さな川

 

なんだか、私には罪悪感以外何もないような気がしている。

 

前から薄々感じていたことだ。

恥ずかしげもなくブログに書くようなことでもないが、自分以外の他人と話す時、私は相手を分類している。

その区分がなんなのかごく最近まで分かっていなかったけれど、たぶんそれは、自分が罪悪感を感じうる相手なのかどうか……ということなんだと思う。

適切な言葉が見つかるまでは「怖い人」「怖くない人」というような言い方をしていた。それも別に間違いではない。

 

罪悪感は、言葉にして表すことこそできるものの、相手に見えづらい感情だ。罪悪感なしに謝る人なんてこの世の中山ほどいるだろうし、深く考えすぎだとか、なんでそんな簡単なことができないのとか、そんなような意味合いのことを言われたことだって何度もある。

 

でも、そんな簡単なことがいつまでもできない人生だ。

 

ごめんなさい、と過剰に謝ることで相手を疲弊させると気がついてから、謝罪の言葉は感謝の言葉に変わった。

感情の裏にあるものが変わらないから、自分の口の動く形が変わったところで何も起こらない。

相手をすり減らすことがなくなっただけ。胸の裏の重っ苦しい何かは変わらない。

 

大人になっても、ずっと自分だけが何かの通過儀礼をうっかりすり抜け続けているような感覚が抜けない。

周りが当たり前に切り抜けてきた苦労を、私は他の誰か他の何かにぶつけてかわしながら、傷のついていない眼球から見ている。

私に傷をつけるものがあるとすれば、本当にその罪悪感ひとつまみくらい、というか。

 

(ここで冒頭に戻る)

 

数多持っているツイッターアカウントのどれを開いても自分を貶めるようなことしか書けなくなって、きっと見た人の気分を悪くするだろうと思ったら、何もかもいやになってしまった。

フォロワーが0のアカウント一つきり残して全てログアウトしたら、今はだいぶ気分が楽になっている。

私に必要だったのは本物の独り言を遠慮なく言える場、けれども、他人の目を排除して排除して排除した先には低い天井、狭い部屋しかない。

 

は〜あ

 

まともになりたいけど一生まともになりたくない。ひとまずこの罪悪感の塊は持っているだけで苦しいのでどうにかして肩から下ろしたい。

一向に片付かない部屋を綺麗にしたい。溜まった洗い物を片付けたい。LINEを返したい。壊れたiPhoneを直したい。深夜にしょうもないブログを書くのをやめたい。掻きこわし癖をやめたい。

どうにかなりたい。

どうにもなりたくない。

 

楽しみにしている本が明日届く、と書いてから積読本が数えるのも憚られるくらいたくさんあることに気がつく。

文章を読んでいる場合でなく書かなければいけないのに!

断れない色々が一日1センチずつ首を絞めていく、本当の意味で何もしなくてもいい休暇がほしい!と思ったけれど、最近の私は逃げ続けて逃げ続けて結構そういう時間をとっているような気がするな。

 

落とし所が見つからないので、これにて終了!

アンストッパブル

 

 

 人間という生き物は、夜よりも朝の方が身長が高くなる、と聞いたことがある。
 朝起きてベッドに入るまでの間、身体を縦にしていることで重力の影響を受けて背が縮むとかなんとか、そんな話。夜の間できちんと元に戻るのか、その辺の話は分からない。
 
 もしその話が本当だったら、たぶん今日の私は歴代最高身長を更新しているだろう。それくらいには、長く眠った。
 置き配で頼んだウーバーイーツを受け取るために一瞬部屋のドアを開けただけ、後の時間は眠っているか、それか横たわってYouTubeを見ていた。四捨五入すればどちらも同じ話だ。
 
 何だかやたらに疲れているというか、身体を引きずっても精神がうまくついてこないというか、そういう状態が続いている。二日ぶりに外へ出て喫茶店に入りこの文章を書いている今は、十分に休んだだけあって少しその感覚がマシになっている気がするけど。
 
 周りの人から「思い立ったら即行動派」「体力がある」という評価をいただくことが最近特に多い。それはこれまでの人生で私が受けてきたのとは全く真逆の言葉で、つまりは私は腰が重いよわよわ女として二十余年ほどを生きてきたわけだけど、それだけ時間が経っているのにまだ自分の知らない自分をしることができて嬉しい。面白い。
 身体に心がついてこないこの感覚だって、今まで身体をある程度乗りこなすことができていたからこそ新鮮に感じる、のかもしれない。
 考えうる限り最も“ダサい”言葉で表すとするなら、たぶん私は人生をサボり続けていた。限界まで己に向き合って力を発揮するため努力を継続していれば、今の私はここにはいないだろう。
 代わりにどこにいたのかは分からないし、そうしてこなかったこそ私は二十を過ぎても人生オモロいな〜と思えるから、別に良い。「別に良い」と言ってしまうと負け惜しみ臭くなってしまうから言い方を変えれば「それがいい」。
 
 
 
 恋愛ができなくなって初めて人生が豊かになった、みたいなことを口にすることがあって、でもこっちは半分負け惜しみかもしれない。
 自分以外の人間にぴたりと寄り添う以外の選択肢を得たことは私にとって幸福なこと、その道はこれまで絶対に見つけられなかっただろうけど、でもその道を経てなおまだ「だ、誰かと一緒にいたいでござる……」になってしまう、私は私の物語を完結させるための文脈として、ひとりで立てるピープルでいたかったのに。
「残念! 人生はまだまだ続きます」ということだろうか。良くも悪くも、私はどこまでも健やかなのだった。
 
 
 
 凡庸である、という事実が私にとってたぶん一番の呪いで、だからこそ他人からそれを否定してもらっても素直に受け入れることができない。
 心の底から信頼を置いている人の「もっと自分に自信を持ってほしい」という言葉を、それでも信頼しきれない。へらへら笑って、そうっすかね、とか言って、また自分の体温で温められた巣に引きこもってしまう。
 悲しみを武器にするなんて最低! いくら自分自身の感情といえど。
 
 呪いが呪いであるのは(それが過去現在未来いつのものかにかかわらず)どこかで一欠片でも甘みを含んでいるためだと思っていて、例えば自分を呪いの道に引きずり込んだ誰かのことを心底憎んでいるだけだとしたら簡単にそれを打ち破れるはずだ、とかそんな話。つまるところ、私は凡庸であることの悲しみに縋っている。卵が先か鶏が先か、私のそういうところが凡庸なのだと理解していて、それでも抜け出すことができない。
 
 
 
 
 
 狭くも広くもない部屋で不服そうな顔をして窓ガラスを延々見つめている君のことが、理解できない。
 ここには何もかもがある、というのは言い過ぎだけれど、望めば何でも手に入ると思えばそれもある意味では真実だった。窓ガラスは文字通り窓ガラスで、君が見つめているのは別にその向こうに広がる果てしない世界、なんかじゃなかった。どうしてそれが分かるかというと、隣の建物が目と鼻の先まで迫っていて、ガラスの向こうに見えるのは汚らしいコンクリートの壁ただそれだけだったから。
 君はもう三百四十八時間二十三分七秒もこの場所にいて、あぐらをかいたり横になったりその場をうろうろしてみたり。矜持の影が薄くなりこそすれ確かに残ったその目を、それでも確かに開き続けている。
 本当に睨みつけたいのは窓ガラスじゃなく、ぼくなんだ。そう思いたかった。沈黙を守り続ける君を尻目にキッチンでひとり手を洗いながら、抱えた膝に思い切り顔を埋め涙を流す、あるいはどこかしらに自ら傷を作ってできた血溜まりに身を預ける、つまりとてもとても不健康な君の姿を想像(妄想)していた。